サプライズの多かった本年も早くも師が裸足で駆出す月となり,「日本の文化」の連載も五年の長きとなりました。この調子で参りますと何時まで続くか判らなくなりにけりです。
そこで今回は今迄に皆様より頂いた多くの疑問珍問の内よりコレハと思う問題を選んでお答えと致しまして,お歳暮&クリスマス・プレゼントとさせて頂きやす。
問い。徳川家康は臨終に当り,家康らしい「遺言」を残したとの事ですが,その遺言とは?
答え。家康は死ぬ前日,家臣の彦坂光政に命じて,↑の太刀で罪人を試し斬りさせた,その切れ味は良く土壇まで切り込むと,大変に満足して自分でも2〜3振りして,今迄の枕刀と取替えさせ,「われ亡き後は久能山に納めよ」と命じた。更に臨終の日には「西国の者共は不安だから,切先を西へ向けろ!」と云ったとの話が伝えられております。
太刀 無銘(伝・光世作) 表・切付銘・妙純傳持,ソハヤノツルギ,裏・ウツスナリ。重文。
刃長 67.9cm(二尺二寸四分) 反り2.4cm(八分) 元幅3.9cm(一寸三分) 先幅2.7cm(九分)
造込は鎬造り,庵棟低く,中反り高く,身幅広く,猪首切先,鍛えは板目肌極めて詰み,地斑が細かに交じり,淡く映り立つ,刃文は中直刃で喰違刃,湯走り状の二重刃が混じり,小沸よく付き匂口冴える。帽子は直ぐで先小丸に返る。彫物は幅広の棒樋と添樋を茎の中程まで掻き流す。茎は雉股形,鑢目切,目釘穴二個。(本科はご神宝のため門外不出)。筑後の正世の子,名は元真,法名が光世,通称が典太,三池に居住のため三池典太と称す。
元来この太刀は駿河国駿東郡大岡庄御宿(裾野市)の御宿家の先祖が源頼朝より拝領した重宝であったが,大阪・夏の陣で御宿越前守政友が豊臣方に加勢し討死,その為に次代の源左衛門貞友が罪を謝し家康に献上した。説と甲斐の武田信玄の子供で桂山(葛山)に養子に入った十郎(葛山信貞)から来た説とがある。尚,信玄と政友の父の信友は又従兄弟にて候。茎に切り付て有る「ソハヤのツルギ」とは「楚葉矢の剣」の事で,坂上田村麻呂の佩刀であり,奈良県高市郡高取町子島にあった子島寺の旧重宝で楚葉矢丸とも云われていた名剣である。後に,この太刀は明治43年(1910)に明治天皇の展覧に供して翌年,国宝に指定されている。姿はカギ( )の一種の鉾で,25cm(約八寸)位の槍の穂先が垂直に曲がり9cm(三寸)位の鎌が出た格好になっている。合せて矢尻もあるがこれは14cm(約五寸)位の笹穂の槍となる。
これら全ては尾張(名古屋)の熱田神宮の下宮である,八剣神社のご神体となっている。八剣とは,天村雲剣・草薙剣・東夷討取の剣・十拳剣・人母鬼の剣・鬼討取の剣・と楚葉矢の剣・元は矢尻の笹穂型の槍も入って,「八剣神社」と申すなり。
茎の切付け名の「妙純伝持」の「妙純」は武田信玄の先祖との説もあるが,「武田系図」を見ても信玄の先祖にこの様な法名の人はいない。これは美濃の守護・土岐家の執権・斉藤越前守利国の法名と思う。利国は江州に出兵して明応五年(1496)12月に戦死しているが,斉藤家の代々の法名には,妙椿,妙親,と「妙」の字が通字として用いられている。
尚,坂上田村麻呂が使ったソハヤ(エ)の剣は平安時代の作であるが,切付名のあるこの刀は写し物と明記してある通り後世の作である。…これは明記しなくても,茎のスタイルの雉股が,その始まりの目釘穴より下にあるので,これは摺上げ茎と言う事が明白である。併し,刃文の焼出しを見ると,明らかに刃区の角から始まっている。これは摺上げ物では無い証拠でもある。よってこの太刀は茎の通り後世(室町期)の「写し物」と言う事になる。本科では無く,写し物が重文になるのは「永仁の壷」(加藤唐九郎)と同じで大変に珍しい。
この太刀が出来た当時は「偽物」と言う言葉は無く,名作に憧れて真似をして造った。その後に動機が不純になり,意識して利益を得る為に作った「写し物」が偽物なのである。この太刀の作者は,室町後期の名人で「関の孫六」と並ぶ「之定(兼定)」と言われている。
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「鳴かぬなら=殺してしまえ,鳴かして見せよう,鳴くまで待とう,時鳥」と言う例えと「織田が捏ね,羽柴が搗し天下餅,座りし儘に,食うは徳川」と言う狂歌がありますが,誠に其の通りで天下は全てに隠忍自重を旨とした家康の手中に転がり込んで参りました。元和元年(1615)五月,大阪城が落ち,淀君・秀頼の親子が自害をして大阪夏の陣が終わると,この時を待ち兼ねていた家康は京都に場所を移し,「禁中並公家諸法度」,「武家諸法度」や「諸宗本山本寺諸法度」等を制定し徳川封建制の基礎を定める。終って竹千代VS忠長の世継ぎ問題を決めて長年の懸案を全て解決させ,後は毎日大好きな鷹狩りをして過します。
※鷹狩りとは=慶長17年(1612)家康が三州吉良←愛知県・忠臣蔵で有名な吉良上野介の領地での鷹狩りで捕らえた「鶴」を朝廷に献上したのを嚆矢として,以降は将軍が自からキャッチした「鶴」&「白鳥」を禁裏へ贈るのが慣例となる。捕まえた鶴は鷹匠が将軍の前で,左脇腹を小刀で裂き,肝を取り出して鷹に与えた後,縫合して将軍の封印を付け,直ちに東海道を昼夜兼行で走らせ朝廷に届けさせた。多くは寒入り後に行われたが獲れない時はモー大変,将軍も昼飯等は抜きで頑張った様である。
翌,元和2年(1616)正月21日の夜中の2時頃に鷹狩りの先で急に腹痛となり,付添いの医師が応急手当をして駿府に帰るが病状は良くならない。腹中に塊りが出来て食欲が無く,手足が冷えて息も苦しくなり,この状態が二ヶ月余り続いていたが3月27日に朝廷から,太政大臣の宣下があった。家康は病床で衣冠束帯を着け,勅使や諸大名の拝賀をうけたが,それ以来,日々に病気は重くなり食事も殆ど咽喉を通らなくなり,四月一日に眼を瞑った。行年75歳,病気は巷間ではテンプラに当ったと云われているが,実際は胃癌との事でご猿。
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徳川義直筆「徳川家康像」 |
晩年の家康は「岩淵夜話」に「徳川殿ほど可笑しき人はなし,下腹ふくれておはすゆえ親ら下帯しむること叶わず侍女共に打まかせて結ばしめる」。と出てますので,余程の肥満体にて立居振る舞いも闊達には参らなかった様でござんす。
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太刀 銘 光世作(名物 大典太) |
太刀 銘 光世作 刃長66.1cm(二尺一寸八分)反り2.7cm(九分)前田育徳会 国宝。
これが加賀120万石の前田家の光世作の太刀があります。これは前田家の三種の神器の第一位に挙げられる太刀で,昔から「名物・大典太」として広く天下に知られています。
九州・筑後三池の典太光世は平安後期の永保頃(1081)の刀工と伝えるが,所伝を首肯す在銘の太刀は本作のみである。作風は身幅の広い鎬造りで丸棟,猪首切先となり,腰反り高く踏張りのある太刀姿で,大板目が流れて大肌の混じる鍛えに白け映り立ち,細直刃がほつれて僅かに小足が入り,物打ち辺が二重刃となった小沸出来の刃文の作風で同時代の一般の作とは大いに異なる。号の由来は,堂々とした体配からの敬称であろうと思われる。
尚,南北朝から室町前朝の「鬼丸」スタイルの素晴らしい拵えが付いております。
前田家では,この三種の神器(大典太・小鍛冶宗近刀・静の薙刀)を納める為に特別な蔵を造り,黒漆の唐櫃に納めて,外に注連縄を張り,代々の当主以外には一切手を触れる事は許より,見る事も許されなかった物である。他の数多ある名刀類とは全くの別扱いであり,戦前迄は毎年一度,日を定めて代々の当主が自から,この三種の神器の手入を行っていた。
大典太は昭和31年(1956)重要文化財に指定されたが,其れ迄は前田家では国の指定は一切無用との態度だったが時代は変化しており現在は国宝であります。又,三種の神器の入った蔵の上に鳥が止まると,霊気に撃たれバタッと鳥が落ちるので「鳥止らずの蔵」と呼ばれていた,との事であります。(前田利為氏。元公爵・陸軍中将。談)。
※靜の薙刀とは源義経の愛妾の靜卸前の事にて候。
本年もお読み頂き,有難度うございました。
来春は「〜今宵の虎徹は良く切れた〜」のコテツから参りやす。
皆様にはどうか良き新年をお迎え下さいませ。
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