『歴史探訪』(24)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
去る11月17日,「東海道ネットワーク」の会主催による例会に参加しました。
今回のテーマは「富士山百景,竹採公園,山本勘助の供養塔を探索しよう」でありました。スタートは東海道本線吉原駅です。
東海道五十三次にあった宿場のうち,三島から白須賀までの22宿が静岡県内にありました。従って静岡在住の会員は多士済済で,綿密な企画と周到な準備により,一日楽しむことができました。
吉原宿は3回の宿替えがありました。
吉原駅の南,見付宿は,平安年間から戦国時代,天文3年まで約360年間,置かれていました。南へ五百米くらいで海岸に出ますが,富士川の支流,潤井川や和田川が田子の浦港に注いでいます。
「田子の浦に うちいでてみればましろにぞ 富士の高嶺に雪は降りつつ」これは百人一首にある山部赤人の有名な和歌です。富士山の眺めは古来不変ですが,田子の浦湾は,工場地帯の造成,港湾の掘削で大きく変わり,とても和歌を詠むような雰囲気ではありません。しかし,見付宿のあった辺りは,明治以降,温暖な気候で,東京の財界人たちが別荘を建てて住んでおりました。娯楽がないので,競馬場を造り,馬を走らせて楽しんでおりましたが,今はなく,馬が走っていたコースは,そのまま住民が利用する道路となっています。見付宿は高波で大被害を受け,元吉原宿に移転しました。江戸時代に宿場制度が定められた時はここにありましたが,寛永16年(1639),漂砂や高波の被害で中吉原宿へ移転します。宿場が北に移ったため東海道は経路が変わりました。その結果,富士山の南側を東西方向に沿っていた東海道は,ある個所で北に曲がることによって,それまで京方面に向うといつも右に見えていた富士山が左側に見えるようになり,これが名所となって,廣重の浮世絵でも有名な,吉原 左富士であります。中吉原宿の付近に,「平家越え」という石碑があります。ここは源氏と平家が東海道で初めて激突した戦跡です。富士川の合戦で,鳥の飛び立つ音を源氏の急襲と感違いした平家は一斉に逃げ出し,源氏方は戦わずして勝利を得ました。ここで源平が対峙したとすれば,平家は富士川を背にして布陣したことになります。背水の陣ということもありますが,常識ではあり得ないことです。疑問はまちの古老渡辺氏の解説によって氷解しました。当時の富士川は今よりもずっと東寄り,中吉原宿の辺りを流れており,従って平氏は富士川を前に布陣していたことが分りました。中吉原宿も延宝8年(1680)の大津波で全滅し,今の市街のある吉原宿に移ります。吉原宿散策後,岳南鉄道に乗って東へ向かいます。
私が東海道を歩いていた13年前,道中初めて原宿に泊まり,友人の萱原画伯を誘い出すことに成功し,彌次喜多道中になったのも原宿からです。東海道のルートを見失い,手さぐりで歩き,偶々出合ったのが,岳南鉄道の須津(すど)駅でありました。画伯の道中初の作品も須津駅です。当時の日記を読み直して見ますと,岳南鉄道は赤字路線で間もなく廃止になるだろう,と大変無責任で失礼なことを書きました。ところが,岳南鉄道は地元の努力とまちおこしによって見事に蘇っている様を見て嬉しくなりました。一つは勘助の供養塔,もう一つは竹採塚です。富士岡駅で降り,歩いて行きますと,小さな池があって中央で水がこんこんと湧き出しています。富士山に積もった雪が,地中深く浸み込んで伏流水となり,何年もかかって浄化され,ここで湧いたのでしょうが,まちぐるみで,この水を取り入れて整備し,まちの人や訪れる人が散策する公園となっております。今NHKの大河ドラマで脚光を浴びている山本勘助がこの辺りで生まれた,と云われ,公園の上に位置する医王寺に,勘助の縁者であった山本家の墓地の中に最近「勘助の供養塔」が建てられました。風林火山のクライマックスは川中島の戦いであり,勘助はこの戦いを演出し,自ら突撃して戦死した,と云われています。医王寺から西へ10分程歩くと,竹採公園があります。ここが竹取物語のモデルになったという伝説があります。最近,我が日本が打ち上げた宇宙衛星が,月のまわりを周遊し,月面から昇る地球の鮮やかな映像が送られて来ましたが,青い地球の美しさに感動した人も多いのではないでしょうか。衛星の名を「かぐや号」と命名したのは将に絶妙のタイミングであり,竹採公園を最近,訪れる人も多いそうです。岳南鉄道の列車には,「勘助号」,「かぐや号」等と命名し,乗客は増え,廃止されるどころか,まちぐるみの企画によって賑わっており,13年振りに乗車した私は,感慨も一入でありました。
来年のNHK大河ドラマは直江兼続です。兼続は戦国時代に生まれ,上杉景勝の家臣として,関ケ原の戦いに到るまで,石田光成と呼応して徳川方を挟撃し,天下を獲ろう,という構想を立てました。結果は徳川方の圧勝に終わりましたが,秀吉の死後,忠誠を誓え,と云う家康の横暴に,一歩も引かず,堂々と渉り合ったさまが,後世に「直江状」として残っております。
今,中央と地方の格差などと云われていますが,歴史を掘り起こし,日本全国到る処で,郷土の英雄が活躍した時代に思いを馳すことによって,我々子孫が格差を跳ね返す勇気と誇りを取り戻すことは大変意義のあることでありましょう。
|