東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(25)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 今年のお正月は穏やかな幕開けでした。
 私は故郷がないので,郷帰りも旅行もせず,例年自宅で過ごしておりますが,今年から自宅の建替を始めますので,仮住まいへ引越す準備の荷物等で,家中慌しく散らかっており,元旦の夜は都内のホテルに泊まりました。
 翌日の朝,急に思い立って,読売新聞の本社前へ出掛けました。二日の朝,8時に,東京箱根間大学駅伝がスタートします。
 毎年テレビで観戦していますが,実際に見るのは初めてです。私達が着いたのは7時40分頃でしたが,沿道は,大学関係者,報道関係,警備の警察官,一般の見物人も含めて,歩道は黒山の人でありました。流石,84回を数える伝統に相応しく,人の熱気が溢れておりました。
 今回は東京から箱根まで,大学駅伝の進行に従って探訪します。
 江戸時代の旅人は,お江戸日本橋七つ立ちと云って,日の出前午前4時頃スタートします。未だ暗いので提灯を提げています。二時間歩くと,品川宿,高輪に着き,日が出て提灯を消すと木戸が開きます。
 東京箱根間は約百粁あって,大学駅伝は5時間余で駆け抜けます。これを5区に分けて襷を継いで行きますが,中継点は,鶴見,戸塚,平塚,小田原と4ヶ所あります。
 東海道五十三次は,日本橋を振り出しに,品川,川崎,神奈川,保土ヶ谷,戸塚,藤沢,大磯,小田原と,箱根までの間に宿場が八ヶ所あります。
 大学駅伝の2区は往路の難所と云われ,最強のランナーが配されています。大学によってはアフリカ出身の選手を使います。花の2区と云われる由縁がここにあります。往路の下り坂は「権太坂」と云われています。昔ある人が旅の途中で,「この坂は何んと云うのですか」と尋ねた処,聞かれた地元の老人は耳が少し遠くて,自分の名を聞かれたものと勘違いし,「権太」と答えたそうです。以来,誰云うともなく「権太坂」と呼ばれるようになりました。
 これと似たような話を私が高校生のとき,聞いたことがあります。人文地理の授業で,「アフリカを旅した探検家が,川がくねくねと蛇行しているのを見て,現地の人に,「この川の曲りくねった状態を何んと云うのですか」と尋ねた処,返って来た答が『メアンダ』,念の為,他の人にも二,三聞いたが,いずれも答は『メアンダ』であった。探検家は曲りくねった川の状態を『メアンダ』と名付け,今でも地理学で正式に『メアンダ』と云われている。ところが,現地では『メアンダ』とは『分かりません』の意味であったことが後の調査で判明した。」
 話が脇道に逸れている間に,大学駅伝は戸塚中継点を通過します。一方,江戸時代の旅人は約五とき(10時間)十里(約四十粁の行程を終え,旅籠に泊まります。何故旅の籠(かご)と書いて,宿屋のことを云うのでしょうか。荷物を乗せたり,自分も乗ったりして,馬で来る人もあり,宿屋に馬の餌の籠を提げてあったという説が有力です。今のホテルとガソリンスタンドを兼ねていたと思えばよろしいのではないか。旅人の第一泊目は,保土ヶ谷か戸塚となります。宿場の旅籠には客引きがいて誘い込みますが,客引きは女性が多く,強引に腕ずくで引っ張り込む「留め女」と呼ばれる女性が居りました。十返舎一九作の東海道中膝栗毛では,弥次さん喜多さんが留め女に袖を引かれて往生する件があります。
 『お泊りは,よいほどがや(保土ヶ谷)と留め女,とつつか(戸塚)まえてはなさざりけり』
 東海道を西に上る道中の素晴らしい処は,いつも前方に富士山を望むことができることです。
 今年我が家に届いた年賀状百数十枚のうち,最も多かった図柄は,嬉しいことに私の好きな葛飾北斎作・浮世絵の「凱風快晴」で知られる名刺大の縮小,色刷でありました。七,八枚頂きましたが,どなたの発信であったか覚えておらず,大変申し訳ないのですが,北斎の傑作はしっかりと私の脳裡に刻まれました。
 大学箱根駅伝は平塚中継所に着きます。
 ここで毎年見物して有名になっているのが河野洋平氏であります。父一郎氏と叔父謙三氏兄弟はともに早大時代,箱根駅伝のランナーであったそうです。洋平氏はまさかお二人の勇姿を見ることは出来る筈もなかったでしょうが,政治家としてのDNAの襷はしっかりと受け継いでいるのではないでしょうか。同時に84回という伝統の重みを感ずる光景であります。
 旅人は戸塚宿を出て,次第に大きくなって行く富士を眺めて元気をもらい,西へ進みます。
 いつも街道の右手に見えていた富士が,藤沢から平塚へ向かう途中で,街道が北方へ向き,その為,左側に富士が見える個所があり,これが「南湖の左富士」と云って名所になっています。旅人の二日目は小田原泊りが多かったようです。ここで天下の険,箱根を越える為に,準備を整え,水や薬,食糧を点検し,途中で万が一夜になることも考え,提灯を買う人もいます。普段は小さくたたんでしまい,軽くて便利な提灯,胃腸薬の外郎は共に小田原の名物でした。
 私も旧街道を寄せ木細工の里,畑宿経由で石畳道を行く箱根八里の街道は大変,気に入りのコースで,何回も家族と歩き,知らない道はない程になりました。
 大学駅伝は,小田原中継所からは,山登りの名人が担当します。
 順位等,結果については省略しますが,往路復路を通して3校が途中棄権しました。
 選手,大学関係者は責任を感じたり,さぞ落胆したことでしょうが,私は順当に走って優勝或いは上位に輝いた大学,ランナーは,一年の努力が実って好成績をおさめたのですから,それは大変素晴らしく,祝福されて当然であると思います。しかし,無念の思いで途中棄権となりましたが,3校の選手は,何度倒れても起き上り,たとえ這ってでも,先に進もうという姿に観戦者は大きな感動を覚えたのではないでしょうか。
 スタートを自分の目で見て,大きな熱気の渦に浸り,あとは時々テレビで観ておりましたが,今までと違った素晴らしいエネルギーをもらい,爽やかに過ごした三ヶ日でありました。

 ここでお詫びしなければならないことがあります。正月四日,出社の途中,いつも駅で六日発売の月刊紙「歴史街道」がもう売り出されておりました。買って手に取った瞬間,愕然と致しました。二月号の特集は「篤姫と幕末動乱」で,NHK大河ドラマのテーマが何と「篤姫」であったことを初めて知りました。前回号で,何を勘違いしたのか,全然他のテーマと思い込み,しかもそれを確認もしないで,投稿してしまいました。最後になりましたが,深くお詫び申し上げます。




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