東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(31)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 6月の日本列島は,北へ行っても,西へ行っても田植の真最中である。天からの豊富な恵みを湛え,植えたばかりの水田は,まわりの野山を映し,これぞ日本古来の風景だといつも思う。
「田一枚植えて立去る柳かな」
 これは芭蕉が奥の細道を行った途中で詠んだと云われています。現代のように一反(300坪)もある大きな田ではなく,一枚というから,傾斜に沿って不整形な,せいぜい30坪程度の小さな田ではないでしょうか。
 10年以上前,奥州街道を歩いていたとき,芦野宿から北へ向かう途中で,この芭蕉の句碑を見ました。3月の初めでまだ肌寒い季節でした。東北本線を西那須野駅で降り,前回の最終地点,太田原宿へ向かう途中,晴れているのに那須の山の方から白いものが風に吹かれて翔んできます。花びらと思っていたら小さな雪片でした。
 太田原は「那須与一の里」と云われています。800年以上前,源平の合戦で,瀬戸内海に平家方が浮かべた船に,高い柱を立て,扇を飾り,撃てるものなら撃って見よ,と源氏方を挑発し,これに応じた与一が見事命中させ英雄となりました。
 この地域では,田植時になると,「那須の与一は三国一の男美男で旗頭」と田植歌で歌われます。もっとも,今は機械で植えられますので,この習慣は残っているのかどうか。
 蛇尾川を渡るころから次第に吹雪となり,鍋掛宿,越堀宿を経て芦野宿に辿り着いた時は日が暮れかかっておりました。宿場の中は行き交う人もなく,一体ここには人が住んでいるのだろうか,という感じで,最寄りの駅黒田原から車を呼んで帰途につきました。
 奥州道中は白河の小峰城で完了しましたが,もう二度と訪れることはないだろう,と思っていた芦田宿に,一昨年行く機会を得ました。
 もう4,5年続いている,木材活用推進協議会が主催するシンポジウムが年一回有名な建築家を招いて盛況裡に開かれております。
 初回は隈研吾氏が招かれ,私は行けませんでしたが,同氏の作品を見に行くバスツアーに参加する機会に恵まれ,向った先が芦田宿でした。宿場内に建てられた歴史博物館と栃木県の石で作った資料館,少し足を延ばして安藤廣重美術館の3点で,いずれも隈先生の作品です。
 奥州道中のときは,まるで歴史の彼方に置きざりにされたような芦田宿が,まちの人達の熱意と隈先生の傑作によって見事に蘇っているさまを見て嬉しくなりました。
 隈研吾と云えば,バブル期に奇抜な建物を作ってひんしゅくを買った時期もありましたが,数年前完成した農大の食と農の博物館は大変好評で,休日は馬事公苑と隣接していることもあって,家族連れの客で賑っています。
 芦田宿歴史博物館は,決して高価な材料を使用せず,ガラス,木材,石をうまく組み合わせ,太陽の位置で,一日中表情が変わる演出で訪れる人は癒される趣向となっています。
 因みに,世田谷に建てた奇抜な作品は,当初ホンダのショールームでしたが,今はメモリードというセレモニー企業が買い取り,私も会員になっています。
 私は以前街道歩きにはまっていた頃,ある人から,「そんな世捨て人みたいなことはやめなさい。」と云われたことがありました。その意味が最近やっと分ったような気が致します。
 旅人は歴史を検証することは出来ますが,文化を創り出すことは出来ないのであります。
 西行法師や芭蕉は旅をしながら,その道で歌人,俳聖として新しい境地を切り拓いて来たのではないでしょうか。私の旅は何も生み出さないまゝ,体力がある限りまだ続きます。



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