『歴史探訪』(33)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
10月8日は「木の日」です。東京では,10月4?5日,木場公園で「木と暮しのふれあい展」が開催されます。当社にも予告ポスターが貼り出されましたが,それを見て大変懐かしく思ったのは,バックの写真が「世界一長い木造歩道橋」と謳われた蓬莱(ほうらい)橋であったからです。
私が初めて蓬莱橋を踏んだのは,平成6年のことでありました。東海道中の13日目で,例によって萱原画伯と共に,新幹線を静岡で東海道線に乗り替え,島田駅で下車し,10分程歩きますと,大井川に出ます。東海道は国道1号線となって,自動車,大型貨物車が猛スピードで走っているであろうから,これを嫌い,人間だけが通行を許されている蓬莱橋を渡ることに決めていました。橋の袂に番小屋があって,八木橋さんという方が,守っておられました。当時の日記を読み返してみます。
大井川の蓬莱橋
木造有料橋。大人1人20円,自転車は30円,リヤカーも30円となっていたが,今どきリヤカーが
あるのだろうか。番小屋で20円を払うと立派な切符をくれた。これを画いている間にタロー氏は
草鞋をぬいで番小屋に上がり込み,出された静岡茶をすすりながら,おじさんと世間話を始めて
いた。
平成6年6月18日『なるほど,大井川は名にし負う大いなる川で,川幅は千メートルを超す。広重の描いた「島田大井川駿岸」では,大名行列の一人一人も米粒のようで,見えない向う岸が川の大きさを思わせる。土手の上を5分も歩けば蓬莱橋があり,橋番のおじさんがいて,通行料20円也を徴収する仕組みになっている。明治12年に完成して以来,自分が16代目の橋番だと言っていた。』
橋を渡ると,向う岸は一面の茶畑で,ここで冬の間は,お茶を霜から守る為に風を送る装置を初めて見ました。
次の宿場,金谷へ向う途中,大井川を渡る蒸気機関車を見て,二人は急にSLに乗り度くなりました。金谷駅で聞きますと,さきほど見たSLは1日1本しかないことが分かり,がっかりして,駅前の食堂で昼食を摂り,しきりに残念がっていますと,店のご主人が,次の便で行くと,千頭という駅で折り返して来るSLを見ることができます,と云われ,勇んで出掛けて行きました。
SLに会うことが出来ましたが,ここで折り返して帰って来る積りが,もっと上流まで行って見よう,ということになり,大井川鉄道を更に遡り,接岨峡温泉駅に着きますと,もう夕方になり,予定を変更して,温泉に漬かって,囲炉裏のある板敷の間で,山菜づくし,鹿の肉,山女の塩焼などに舌鼓をうちました。翌日は金谷まで戻り,日坂峠へ行く途中で大雨に遭い,画伯はバスで,私は徒歩で掛川まで行きました。
話を蓬莱橋に戻します。明治2年,最後の将軍,徳川慶喜を護衛して来た幕臣達が,大井川右岸にある牧之原を開拓し,お茶を作り始めました。失業した武士達は,厳しい環境のなかで,艱難辛苦し,その甲斐あって,静岡は日本一のお茶の生産量を誇るまでになりました。
「ずいずいずっころばし」という俗謡があります。これは江戸時代,当時のお茶の産地,京都の宇治から,徳川幕府の将軍にお茶を献上する使の者たちが,将軍の権力を嵩に着て,沿道の人々へ働く乱暴狼藉ぶりをうたったものである,という説があります。
宇治で栽培され,丹精こめてつくられた極上のお茶を茶壺に入れて何人かで担ぎ,例えば,「将軍様に捧げるお茶のお通り?。」と大声で叫ぶと,これを聞いた沿道の庶民は,その場で土下座をしてお見送りしなければなりません。庶民にとってこんな理不尽なことはないので,遠くから声がかかると,急いで家に駆けこみ,戸を閉めて留守を極めこみます。
これが「茶壺に追われて,戸ピッシャン」であります。これは江戸時代のことで,明治になりますと,道中の規制がなくなって,川には橋が架かり,当然,お茶壺道中も廃止され,うただけが現代までうたい継がれています。
蓬莱橋は,明治12年に架けられましたが,これは茶畑で働く元侍達の職住近接の為に,時の有力者の肝煎りによって完成し,現在まで残り,今では観光名所として慕われております。
島田 しまだ(静岡県島田市)
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