東京木材問屋協同組合


文苑 随想

8代将軍徳川吉宗の経済政策
−節約だけでは駄目だった−

榎戸 勇


 徳川吉宗は家康の孫,紀州藩主徳川光貞の四男である。兄3人の内次男は幼い時に亡くなったので,吉宗には兄が2人居たことになる。しかし兄2人は正室の子であるが,吉宗は側室の子,つまり庶子である。

 父光貞は2人の子供が何となく弱々しいので,将来の紀州藩を支えて兄を助けるための丈夫な男児が欲しいと思い,つてあって藩のお湯番をし薪割り等も手伝っていた婢女の「おゆり」に目をつけた。「おゆり」は色浅黒く角ばった顔だち,しかし体格だけはすごく立派な女である。光貞は「おゆり」を側室にし,「おゆり」は期待どおり体格のよい男子を生んだ。これが吉宗である。吉宗は兄2人と共にすくすくと育てられたが,嫡男との差別はかなりあったようである。
 元禄10年(1697)5代将軍徳川綱吉が紀州を訪れた時,兄2人は父光貞と同席で将軍に拜謁したが,庶子である吉宗は次の間で平伏して顔もあげなかったとのことである。しかし綱吉は彼に目をつけ,庶子であることを聞いて当時天領(幕府の直轄地)であった越前(福井県東部)の丹生3万石を与え,丹生藩主に取りたてた。一躍3万石の大名になったのである。14才の時である。しかし丹生は雪が深く田畑も少ない山里で実質は1万石以下の処だったらしい。

 彼は丹生に赴任すると木綿の着物にたっつけ袴,(膝下をくくって筒型にした袴)で馬を乗り回し,槍や鉄砲で武術の稽古をして汗を流し,雪の深い冬は室内で読書という生活をした。元禄時代,都会は華やかなのに丹生の生活は質素で食事も野菜中心の一汁三菜位だったという。
 ところが,紀州藩を継いだ兄2人が次々と亡くなったため,彼が紀州55万5千石の藩主になったのである。彼22才の時である。
 吉宗はそれまで 方と言われていたが,紀州藩主になって将軍綱吉(5代将軍)の一字を貰って吉宗と名のることになり,從三位の位になった。

 紀州入りの時の吉宗は小倉織(厚い地の木綿)の袴に木綿の羽織で馬に乗り,供の数も少なく,質素な行列だったという。
 彼が紀州藩主になった時の藩の財政は窮乏しており,更に藩主になった翌々年に紀州南部に大地震があり,津波も押しよせて大被害を受けた。(今も心配されている南海トラフによる大地震)藩はその復旧に莫大な費用を要し,財政は益々困窮をきわめた。
 吉宗は紀州入り後すぐに藩の事務を簡素化し,藩主の日常的な用務を勤める小役人等を大巾に減らし80人に暇を出したが,大地震のあと直ちに家中に20分の1の震災復興のための差上金(5%の減給である)を課し,もともと質素だった藩主の生活を更に切りつめた。質素,節倹の藩政はその後も続けたので,紀州藩の財政は次第に回復し,借入金もほとんど無くなって,藩の金蔵には若干の金貨,銀貨の貯えを持てる程になったという。

 幕府は5代将軍綱吉のあと嫡男が無いため,甲斐(甲府)藩主であった徳川家宣(3代将軍家光の側室の子,つまり庶子)が将軍になったが,家宣は51才で他界,家宣48才の時に側室に生ませた子が僅か数え年4才で将軍になったが,7才で死亡,幕府は次の将軍を御三家(尾張,紀州,水戸)から迎えねばならないことになった。
 御三家の筆頭は尾張大納言であるが,当時尾張藩は藩主が僅か29才で急死し,そのため藩の内部がゴタゴタしていた。水戸中納言は紀州藩主吉宗が,藩財政をたてなおした功績を高く評価し,吉宗こそ次の将軍に最もふさわしいと強く吉宗の将軍就任を推し,紆余曲折の後,吉宗が8代将軍に就くことになったのである。

 吉宗は将軍就任後直ちに家宣の側近であった間部詮房,新井白石を罷免し,荻生徂来,室鳩巣等の需者を重用して,勤勉と尚武,そして節倹を旨とする政策に取り組んだ。5代将軍綱吉が幕府財政を派手に使ったので,吉宗が将軍になった時幕府財政は逼迫し金蔵は空っぽだったという。吉宗は紀州藩での経験をふまえ,幕府財政の立直しに努力した。徳川歴代の将軍のなかで吉宗程節約に徹した将軍はいない。衣服は太い糸で織った粗末なもので,肌着は夏も冬も木綿,食事も野菜料理で,お新香を一品に数えて一汁三菜,酒は大好きだが夕食時だけ2本にした。米も7分づきだったらしい。

 また,家臣の服装にも眼を光らせ,北条対馬守氏澄が綸子の単物で吉宗の御前に出たところ,じっとその服装に眼を注いだまま一言も発せず対馬守は仕方なくそのまま引き下がったという。将軍率先の節倹を見て各藩の江戸詰の武士,特に奥方や姫は江戸住まいだったが,皆質素な生活をするようになった。
 約50万人という幕府や各藩の人々が節倹生活になったので,呉服所その他諸々の商人,芝居も花街も全て閑古鳥が鳴く始末で,職人達も仕事が無く困窮した。まさに合成の虚偽(注)である。
 経済の再建は節約だけでは駄目である。経済再建は一方で無駄を省き,他方で経済発展のための諸方策を進めなければ駄目なのである。吉宗の政策は節倹だけであったため,江戸の,そして消費都市江戸への送り荷が減って,大阪の商人,高級品をつくる京都の業者も不況になってしまったのである。

 今日の不況は当時とは全く質が違うので,その立直り方策は非常に難しい。年月をかけてじっくり取組むことになろう。消費は冷えているので,新しい技術の開発発展が必要である。

H21. 9. 8記

 (注)「合成の虚偽」。人々の消費が変わらない場合,Aさんが節倹に努力し金を貯めればAさんは次第に豊かになる。しかし,BもCもDも全ての人々が節約に めば物やサービスの需要が減り,設備投資も減少する。生産が減れば人減らしをするので失業者が増え,所得が減るので物もサービスも更に減ってしまう。そのためAさんもBさんもCさんも,皆収入が減り豊かにはなれない。これを「合成の虚偽」(経済学用語)という。吉宗はこの法則を知らなかったわけである。

(補追)
7月号で1両を約10万円に訂正したが,当時は米本位経済であり,米の価格は常に上下するので,1両で買える米の量も増えたり減ったりする。従って米本位経済における1両の値打も米換算では変化することになる。このため1両は現在の値打で6万円乃至10万円位であろう。尚,度々大判小判や銀貨も改鋳し金や銀の含有割合を変えているので,慶長小判の1両に比べ徳川中期に改鋳した小判の1両は20%以上金の含有割合が少なく,値打もその割合で安い。1両が現在価で何万円なのかきちんとは確定できないので訂正させて頂きます。

 

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