東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.110

未来をひらく「福澤諭吉」展と福澤先生

青木行雄

 平成21年2月のある土曜日の午後,友人とJR上野公園口改札口で待ち合わせ,東京国立博物館,表慶館,本館で開催中の「福澤諭吉」展を見に行く機会を作った。
 上野公園は文化の町として博物館・展示館公演ホール等数館あって,いつ行ってもかなりの人出である。見に行く人,見て帰る人,人それぞれだが,何か満足感の感じる笑顔の人が多いように思う,この雰囲気を見るのも実に楽しい情景だ。
 今日は,天保-弘化-嘉永-安政-万延-文久-元治-慶応-明治と激動の時代を生きぬき,幕末明治の思想家として革新的な活動を展開し,日本の近代化に大きな足跡を残した,福澤諭吉先生の未来をひらく「福澤諭吉展」を見る為にやって来た。
 今でも大分県中津市の海辺の中津城のある公園に独立自尊の記念碑があって,側で遊んだ事もあった。中津駅前にも銅像があって顔馴染みの人である。そんな事から,この150年記念展には何が何でも行こうと思っていた。
 この福澤諭吉展は,平成21年1月10日に開幕したが,慶應義塾が昨年150年を迎えたのと本人が1835年1月10日に生まれたとある。生きていれば,174歳になる。そして,今年は明治142年目にあたる。

※中津公園にある独立自尊の記念碑,この近くに奥平家の所有
 する中津城がある。

 慶應義塾創立者,福澤諭吉の思想と活動を振り返り,その現代的意義を探るがテーマであるが,様々な角度から諭吉先生に光をあて,遺品,遺墨の他,実業界で活躍した門下生の美術コレクションも多く展示されていた。国宝,重要文化財を含む名品の数々,人間社会に果たす芸術の役割や,富める者の振る舞いについて諭吉先生がその決断を伝えている。
 幕末・明治前期の啓蒙家だった福澤先生は教育・思想に加え,身体,家族,社交,実業などの面でも,日本の近代化に大きな足跡を残した人でもある。
 展覧会について,テーマ毎に分けられており,第一部「あゆみだす身体」第二部「かたりあう人間」第三部「ふかめゆく知徳」第四部「きりひらく実業」第五部「わかちあう公」第六部「ひろげゆく世界」第七部「たしかめる共感?福澤門下生による美術コレクション」の七部で構成され,多面的な業績を紹介されていた。
 一般的な展覧会の場合はちょっと派手で目立つ様に会場を設定するが,諭吉展会場は大正の初期に建てられたと言う古い建物で,あまり使われない地味な表慶館である。
 この表慶館の玄関を入ると,日本のブロンズ彫刻の先駆者,大熊氏広作の「福澤諭吉座像」,大理石彫刻の草分け,北村四海作で戦災で傷つき,最近修復されたと言う女性像「手古奈」(慶應義塾蔵),諭吉展の,たれ幕などが迎えてくれた。入口の係の人にわざと,『写真撮影は?』と聞いて見るともちろん『駄目だ』と断られた。
 身体をテーマにした第一部では,福澤先生が健康維持の為に毎日使っていたと言う臼と杵,居合刀など,『へぇ〜こんなものを使っていたのか』と興味深く見入る。
 「かたりあう人間」の二部では,福澤夫妻肖像写真や,息子の一太郎と捨次郎の米国留学帰朝祝賀園遊会の大きな写真がえらい印象的だった。

 
※福澤諭吉が長崎に遊学するまでの幼少青年期を過ごした家,
庭に建つ土蔵は諭吉自信改造したもので,その2階で勉学に
励んだ。

 第三部の「ふかめゆく智徳」の中では,中津福澤旧宅や平面図の紹介があった。
 この写真は中津に行った時に私が写したものである。
 また日本画で,福澤先生が慶應義塾生に講義をしている後ろで,別の塾生が,上野寛永時での彰義隊と新政府軍の衝突を遠望している様子を描いた画も実に傑作で印象的だった。
 「きりひらく実業」第四部では,官尊民卑を脱して経済人を尊ぶ必要性を論じ,「独立自尊」の気品を求めた「尚商立国論」の自筆原稿の掲示があった。そして福澤の門下生から多数生まれた実業人は「福澤山脈」と呼ぶと言う。そして本展では,地方で活躍した門下生や,福澤先生が実業に求めたモラルについても焦点を当てている。
 福澤先生が創刊した日刊紙「時事新報」の編集にあたっては,女性を含めた多くの人達に新聞を読ませる工夫を施した様子が分かる。先生のこの「福澤山脈」の中の一人に朝吹英二と言う三井財閥の番頭の1人,大分出身者がいて,私の友人の遠縁にあたる。彼は大変先祖思いで良く朝吹爺の眠る墓がある鎌倉の寺に供養に行っている。私も同行した事がある。
 「わかちあう公」の第五部では,「民」の立場を貫いた福澤先生は,明治政府との関係を築く上で,新しいメディアを活用した。「演説」や「新聞」である。
 福澤先生は,個人と「公」がどの様な関係を築く事を望み,何を実践したか,その模索を紹介している。
 並べられた紙面に日本の新聞で初めて掲載した漫画や「何にしよう子」と題された料理のレシピなどが大変面白い。
 福澤先生が援助や力になったと言う,北里柴三郎,同県人でもあるが,嫌気性菌培養器具大型ガラス管が私には大変目を引いた。
 第六部には,晩年に著した「福翁自伝」の自筆原稿が展示され見る事が出来た。福澤先生は写真が大好きで多くの写真が見られたが中にはサンフランシスコで写した自分の写真,写真館の女子との2ショット,他に色々大小とあった。そしてアメリカからの土産に現物の乳母車が面白い。それに子供の頃の一太郎と捨次郎が乳母車と一緒に写った写真も見るべきものであった。
 末尾には,「生涯の中に出来して見たいと思う所」として,(1)文明国に恥ずかしくない気品を備えた人物の育成,(2)宗教の別にかかわらず人々の心を穏やかにすること,(3)学問を大いに奨励してあらゆる物事の真理を解き明かすこと・・・を挙げている。現在においても新たに通じる素晴らしい課題ではなかろうか。
 「国の光は美術に発す」と芸術の役割をよく認識していた福澤先生の門下生達のコレクションを,「たしかめる共感」と題して,第七部に展示しており,色々な国宝級の物を沢山見る事が出来た。有名な門下生の多い事にも驚く。

 福澤諭吉先生の経歴について記して見た。
 1835年(天保5年)12月12日(前記の1月10日の説もある)大阪堂島浜(大阪市福島区福島1丁目)にあった豊前国中津藩の蔵屋敷で下級藩士福澤百助・於順の次男(末っ子)として生まれる。諭吉という名の由来は,儒学者であった父が「上諭条例」(清の乾隆帝治世下の法令を記録した書)を手に入れた夜に彼が生まれたことによる。父は,大阪の商人を相手に藩の借財を扱う職にあったが,儒教に通じた学者でもあった。しかしながら身分が低い為身分格差の激しい中津藩では名をなすことも出来ずにこの世を去った。その為息子である諭吉は後に「門閥制度は親の敵(かたき)で御座る」とすら,述べており,自身も封建制度には疑問を感じていたと述べている。なお,母兄姉と一緒に暮らしていたが,幼時から叔父中村術平の養子になり中村姓を一時名乗っていた。後,福澤の実家に復する。
 1836年(天保6年),1歳6ヶ月のとき父の死去により帰藩し中津で過ごす。親兄弟や当時の一般的な武家の子弟と異なり,孝悌忠信や神仏を敬うという価値観はもっていなかった。初め読書は嫌いであったが,14〜15歳になってから近所で自分だけ勉強をしないというのも世間体が悪いという事で勉強を始めたと言う。しかし始めてみると直ぐに実力をつけ,以後様々な漢書を読み漁った。
 1854年(安政元年),19歳で長崎へ遊して蘭学を学ぶ。黒船来航により砲術の需要が高まり,オランダ流砲術を学ぶ際にはオランダ語の原典を読まなければならないがそれを読んでみる気はないかと兄から誘われたのがきっかけであった。長崎の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し,オランダ通詞(通訳などを仕事とする長崎の役人)の元へ通ってオランダ語を学んだのである。

※新装なった現在の大分県中津駅,構内には「天は人の上に
人を造らず,人の下に人を造らず」の額が掛けられている。

 1855年(安政2年),その山本家を紹介した奥平壱岐や,その実家である奥平家(中津藩家老の家柄)と不和になり,中津へ戻るようにとの知らせが届く,しかし福澤本人は前年に中津を出立した時から中津へ戻るつもりなど全くなく,大阪を経て江戸へ出る計画を強行する。大阪へ到着すると,かつての父と同じく中津藩蔵屋敷に努めていた兄を訪ねる。すると兄から江戸へは行くなと引き止められ,大阪で蘭学を学ぶよう説得される。そこで大阪の中津藩蔵屋敷に居候しながら,蘭学者,緒方洪庵の適塾で学ぶ事となった。ところが腸チフスを患い,一時中津へ帰国する。
 1856年(安政3年),再び大阪へ出て学ぶ,同年,兄が死に福澤家の家督を継ぐ事になる。しかし大阪遊学を諦めきれず,父の蔵書や家財道具を売り払って借金を完済した後,母以外の親類から反対されるもこれを押し切り再び大阪の適塾で学んだ。学費を払う余裕はなかったので,福澤が奥平壱岐から借り受けて密かに筆写した築城学の教科書を翻訳するという名目で適塾の食客(住み込み学生)として学ぶ事となったのである。
 1857年(安政4年)には適塾の塾頭となった。適塾ではオランダ語の原書を読み,あるいは筆写し,時にその記述に従って化学実験等していた。適塾は医学塾であったが,福澤は医学を学んだというよりはオランダ語を学んだという事である。
 1858年(安政5年),江戸の中津藩邸で開かれていた蘭学塾の講師となる為に吉川正雄を伴い江戸へ出る,築地鉄砲洲にあった奥平家の中屋敷に住み込み,そこで蘭学を教えた。

※新装なった現在の大分県中津駅,構内には「天は人の上に
人を造らず,人の下に人を造らず」の額が掛けられている。

 この蘭学塾「一小家塾」が後の慶應義塾の基礎となった為,この年が慶應義塾創立の年とされており,この150年の記念に福澤諭吉展に繋がったとされる。
 私の同期にも慶應出身の友人が何人か居るが,福澤慶應精神の伝統を身に付けた所が随所に見受けられ,温厚だが真の座った人達で尊敬している。
 福澤先生について色々資料を探していると面白い記事に目が止まる。
 1860年(万延元年),福澤先生は「咸臨丸」と言う船でアメリカ合衆国,サンフランシスコに行った事は有名であるが,この船は幕府がオランダに注文した蒸気軍艦で船価は当時の金で10万ドルだったと言う。最初の名は「ヤッパン」(日本丸)と言った。この船の艦長となる軍艦奉行「木村摂津守」の従者として,福澤先生は乗船したが,咸臨丸の指揮官は勝海舟であった。艦長が勝海舟と書いてある資料もある。
 当時25歳だった福澤諭吉先生は晩冬から早春にかけて太平洋の荒波を渡った。通訳の中浜(ジョン)万次郎ら107人を乗せた咸臨丸は1860年(万延元年)3月17日に米西海岸のサンフランシスコに到着した。この時の福澤諭吉先生が海での荒波の表現が面白い。「これはなんのことはない,牢屋にはいって毎日毎夜大地震にあっていると思えばいいじゃないか」と記されている。
 サンフランシスコ市民はこの最初の日本使節を盛大に迎えた。その中に「彼らの容姿はわれわれがこれまでに目にしたどの中国人よりはるかに知的である」と言う一説が記されていた。チョンマゲに腰に刀がそう見えたのか,面白い。そして最大の「ほめことば」だったのかも知れないと思う。

話はガラッと変わるが、中津の福澤諭吉旧居を訪ねた折に見てきた1万円札と他所の1万円札のNo.を記してみると、
 東京貨幣博物館     A000001A
 慶 應 義 塾     A000002A
 平  等  院     A000003A
 国 立 印刷所     A000004A
◎中  津  市     A000001B
 宇  治  市     A000005A
 大  阪  市     A000006A
こうして色々調べて記していると、意外に勉強になることが実に多く大変為になる。人生一生勉強だと考え、書き続けて行きたいと思っている。
※「福澤記念館」の入場券,右は「福澤諭吉」展の入場券。

平成21年4月12日記

 

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