東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.115

明暦の大火と江戸城再建

青木行雄

 1657年(明暦3年)正月18日午後2時頃,本郷丸山の本妙寺から出火した火事は,冬の凍るような強風に煽られ本郷・湯島・駿河台に燃え移り,たちまち神田・日本橋迄延焼した。そして夕刻には,茅場町・八丁堀・霊巌島・佃島へと燃え広がり,とうとう隅田川を渡り,本所・深川に迄及び,19日午前2時頃やっと鎮火したのである。
 この江戸明暦の大火は不思議と別々に3ヶ所から出火したと言い,1度目が先の本妙寺であった。そして,2度目は翌日19日午前11時過ぎ,小石川伝通院近くの武家屋敷から出火し,神田から京橋・新橋へと延焼し,途中,御三家,北の丸の大名屋敷から江戸城へと飛火し,天守閣を始め,本丸・二の丸・三の丸を燃やし,運良く辛ろうじて西の丸が焼け残ったと言うのだ。
 そして3度目は同日19日の夕方,麹町の町屋から出火し,火は東に向かい,堀端に沿って外桜田,大名小路の井伊・上杉・伊達・島津氏などの大名屋敷を焼き,日比谷・芝まで及んで,鎮火したのは翌20日の朝であったと記されている。
 火事の被害は史料により相違があり,正確なところは不明の様だが,江戸の3分の2が全焼した。その内訳は一般に大名屋敷160家,旗本屋敷770家,町屋400町,死者は10万人以上と言われている。特に最初の本妙寺の出火の大火では,浅草橋見付の門が締め切られた為多くの死者を出し,霊巌寺でもたくさんの犠牲者を出したと言う。
 両国の回向院は,この時の死者を埋めた地に,供養の為建立された寺である。
 この様に1657年(明暦3年)正月に起きた,明暦の大火は,大施餓鬼の火に投げ入れた振袖から飛び火したと,のちに脚色され,「振袖火事」とも呼ばれ芝居や戯曲等に取り入れられ広まって行ったと言う。
 明暦3年正月18日大火が発生する時の江戸の情景が書かれた「むさしあぶみ」と言う本から一部記しておきたい。
 「明暦三年丁酉,正月十八日,辰刻(朝八時)のころより北西の大風が吹き,塵や埃を中天に吹き上げて空になびいていた。雲か煙がたなびいているかのように空はうす暗く,江戸中,身分の高い低いにかかわらず,すべての人が家の門や戸を閉めたままであった。すでに夜は明けているが,そとは暗闇で人の往来がほとんどない,ちょうど未刻(午後2時)になろうとするとき,本郷四丁目の西口にある日蓮宗の寺・本妙寺より出火した。
 黒い煙が天をかすめ,境内のすべてが同時に炎上した,まさにそのとき魔風があらゆる方角に吹き荒れた。」とある。
 この様な明暦の大火により,日本一大きかった5層6皆58メートルあった江戸城天主閣は,灰となって今から352年前に喪失したのである。その間,大奥・二の丸・三の丸等再建され何度かの火災にもあったがその都度再建されたらしいが,天守閣だけは終いに再建される事は無かったのである。

※この台座は350年程前に作られた石垣で今,自由に
見る事が出来る。
 天守閣再建の話について,当時のエピソードが書かれてあるので記しておきたい。
 時の4代将軍徳川家綱はすぐさま天守閣再建の為,加賀藩の前田家に天守台普請を命じた。ところが前田氏がいざ工事を始めてみると大火による高熱の影響で,石垣の再構築が必要である事が判り,大掛かりな工事へと発展したのである。いよいよ工事に掛かると天守台の地下深くに備蓄された莫大な金・銀が大火によって溶け出ていた。延焼を被害から免れた西の丸まで金銀塊を人海戦術で運んで行くのだが,作業に大変手間取り,なかなか作業が進まない。頭を抱えた加賀藩の前田氏は老中に相談し,一部を残したまま,石垣を積み上げ,工事を完成させたと言う。今見る事の出来る石垣は,この時前田氏が作った石垣そのものである。こうして,この天守台の上に天守閣を作るはずだった江戸城が何故出来なかったか。
 それにはこんな深い理由があったのだ。

 当時,江戸の三名君と言われた実力者,会津藩主「保科正之」は,焼け落ちた江戸城天守閣の再建について,天守は実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけの物であり,無駄な出費はこの際避けるべきと主張した。そして焼け出された庶民の救済の為に充てたと言う。その時主要道の道幅を6間(10.9)から9間(16.4m)に拡幅したり,火除け空き地として上野に広小路を設置,芝と浅草に新堀を開削,神田川の拡張等に取り組み,江戸の防災性を向上させたのである。今の時代にも欲しい様な名君であった。ちなみに,当時の三名君とは,今テレビ時代劇番組で人気ナンバーワンの水戸藩主・徳川光圀,と岡山藩主の池田光政である。

 ちょっと横道に反れるが,この名君「保科正之」について,資料より記しておきたい。

 1611年(慶長16年)〜1672(寛文12年)江戸前期の大名・会津藩主。
 「保科正之」は3代将軍・徳川家光の弟である,2代将軍秀忠が側室に生ませた子で,保科家に養子に出された。
 成長し江戸城に登城する事になるが,自分は高貴な身分でありながら,他の大名達が上座に勧めても,常に控え目に振舞った。そんな正之を,家光は見込んで重鎮に引き上げて行った。
 そんな正之は,家光の為,そして家光亡き後は,家光の子・家綱の為に終生尽くした。そんな事で家光の血縁として厚遇され,出羽国山形を経て会津23万石の藩主となった。
 藩主になっても,正之は江戸に居る事が多く,第4代将軍家綱の補佐役として,幕閣の重鎮として文治政治を推し進めたのである。
 因みに,この時代の幕閣は正之の他に,酒井忠勝,松平信綱,阿部忠秋等が居た。
 正之は藩政にも力を注いだ。会津に入った1643年(寛永20年)の12月,留物令によって,漆・鉛・蝋・熊皮・巣鷹・女・駒・紙の八品目の藩外持ち出しを手形の有無で制限し,一方では許可なくしては伐採出来ない樹木として漆木を第一に挙げる等産業の育成と振興に勤めた。他に事例はたくさんあるが,90歳以上の老人には,身分を問わず,終生一人扶持(1日あたり玄米5合)を支給し,日本の年金制度の始まりとされている。この当時制限を90歳の高齢とした理由は定かではないが何人も居なかったと思われる。因みに正之は1672年(寛文12年)江戸三田の藩邸で死去,63才だったと言う。
 焼失により352年に至るこの間,江戸城天守閣再建の話は何回となく持ち上がっては消えている。戦後でも2回もの話を聞くが,政治的や私利による再建等環境に合っていなかった理由がある様だ。
 日本は今色々な難題を抱えている中で観光日本としても,力を入れ,世界の観光客を受け入れなければならない。観光収入も日本にとって,東京にとっても大きな柱の一つだと思っている。その中で首都・東京が国際観光都市として未だ確固たる地歩を築いているとは言い難く,その要因は日本らしさを体現する,江戸東京には歴史的,文化的遺産が表面化されていない。
 「江戸城」を再建する事により,それは観光立国日本の一大シンボルとなり,木造で作れば,日本の伝統技術の継続,高齢化した職人,宮大工の継承,文化の象徴として,後世へ歴史の贈り物となるのではないか。
 天守閣も大奥も松の廊下もない東御苑の中に今でも年間90万人の入場者があると言う。行って見ても分かるがかなりの外人が多い。東御苑を見学して日本人であの天守台の上に天守閣があったらと思わない人はいないと思うのである。

 そこで今回,天守閣再建に世論が持ち上がりつつある理由と会の意気込み等を記して見た。

※中央に見える天守閣はモデルとして作成された写真だが,
東京の景観は大きく変ると思う。

「江戸城再建を目指す会」の動向……
 首都・東京に江戸城を,草の根運動から国民運動へと。
 東京に江戸城の天守閣があれば……。
 そんな夢の実現に向けて動き出したNPOの活動は,多くの人を巻き込んで確実に広がって来ている。
 ロンドンのバッキンガム宮殿の様に,東京にも世界にアピール出来るシンボルを作りたい。「NPO法人 江戸城再建を目指す会」は,理事長・小竹直隆氏の熱い思いから,始まった。
 東京は日本の首都でありながら,歴史や伝統文化を反映した魅力的なモニュメントがない。日本的な良さや美しさの象徴として,日本文化が育った江戸時代の歴史はありながら実在した江戸城の天守閣を再建したいとの思いから,行動が始まった。そんな中,同じ思いを持っていた仲間が1人増え,2人増えて,平成21年度の役員や理事は,会長,太田資暁(太田道灌公18代子孫)を始め,顧問9人,アドバイザー及参与9人,小竹理事長を始め理事9人,監事2人に特別委員30人と組織も大きくなり,会員数も徐々に増えて21年8月24日までに1,435人となった。
 賛同者も確実に増え,機運も着実に上昇して来た事が目に見えて来た。
 今後は,会員を3,000人から5,000人へと増やして国民的運動にまで高め,NPO設立10年後には,天守閣再建の夢実現を目標に,1人でも多くの賛同者を求めて展開中である。
 夢実現の為には,大きければ大きい程その苦労も大きい。その夢実現の為には,途中で怯んでは,絶対に実現する訳がない。最後まで実現するまで思い続ける事だと物の本にも書いてあった。

※5層6階の天守閣。本物が早く見たいと思う人は多いはずだ。

 夢実現の為,日本のあの新幹線が実現するまでの苦労話を聞いた事があり記して見た。
 これからますます飛行機の時代にあって,当時の十河信二国鉄総裁は色々な意見を押し切って,1955年(昭和30年)東京←→大阪間に新たな鉄路を敷き,高速列車を3時間余りで走らせる計画を発表した。これを聞いて,こんな当時,とてつもない事を,計画した指導者は,凄い人だと感服するが,当時の政治家,財政当局が簡単に認める訳がない。大反対した人も多く,説得して着工まで漕ぎ着けたのは4〜5年掛かったと言う。着工後も,250キロのスピードに耐えられる様,何度も走行実験を行った。色々の実験の中に鳥が窓に当った時のテストまでやったと言う。とうとう建設費も2倍以上掛かり,十河総裁が責任を取って辞任する事までになった。そして営業開始の予定が更に5年後の1964年(昭和39年)10月1日,東海道新幹線として開業したのである。そして10月10日東京オリンピックが始まり,参加94ヶ国に日本の素晴しい世界一の新幹線のお披露目となったのである。
 「世界一の列車」を走らせる事が出来たのは,十河氏を始め当時の国鉄マンの情熱と完成を夢みた熱意の賜物だったと感心する。
 エピソードの中に十河総裁が起工式のクワ入れの時,力余って先が抜け,参列者の前まで飛んで行ったと言う。いかに全身全霊を傾けていたかが窺える出来事である。
 こんな思いを今,江戸城再建に思いと情熱を傾け,内容は国鉄新幹線と大きな違いはあるものの,多くの人々の協力を得て,起工式まで漕ぎ着けて,我々が「小竹理事長にクワ入れをしてもらいたい,力余って先が抜ける思いがしたい,再建に思いを馳せ情熱を持って今取組んでいる所である。

平成21年8月30日記

 参考資料
   江戸東京年表      (株)小学館
   日本史年表       (株)岩波書店
   月刊「江戸楽」      エー・アール・ティ(株)
   サンケイ新聞社
   「江戸城再建を目指す会」 かわら板
   「むさしあぶみ」     田部幸裕 
 

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