東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.116

歴史探訪No.49(江戸東京散策)
「浅草橋から柳橋そして蔵前」

青木行雄

 太田資長(道灌)が江戸城築城したのが1456年(康正2年)だった。没するまでの30年間江戸城を中心に活躍したのである。そして徳川家康が初めて江戸城に入ったのが,1590年(天正18年)で,道灌が築城してから,134年後の事であった。そして名実共に天下を取った家康が征夷大将軍となり,江戸に幕府を開いたのが1603年(慶長8年)の事で,本格的な江戸の始まりである。
  家康が1607年(慶長12年)に5層6階の天守閣を建て,北の丸の造営をし,充実した江戸の町として発展して行くのである。現在の皇居は当時の江戸城全域の半分位と言うが,桜田門や四谷門等の門が36門あった。その門のある所を見付御門と言って重要な要所であった。

※JR浅草橋又は両国から下車し,大通りを右に少々行くと
橋の袂の小公園の中にこの碑がある。

 JR浅草橋駅を下車し,大通りを右に行き浅草橋の架かる場所に,浅草見附跡の石碑があって,1636年(寛永13年)に造られた枡型門が浅草御門としてあった場所である。大手門や外桜田門に次いで重要な門だったと言う。幕府は,主要交通路の重要な拠点に櫓・橋・門等を築き江戸城の警護をした。浅草見附の警護には鉄砲五丁,弓三丁,長柄十筋,持筒二丁,持弓一丁を備えていたと記録されている。この浅草見附の通りは奥州街道と言い日光東照宮への参詣道として整備された訳だが,浅草橋〜浅草寺間は浅草観音への道筋に当り浅草寺への参道でもあったと言う。
  1868年(明治元年)7月,江戸は東京と改称され,9月には慶応が明治と改元,天皇が初めて京都から東京に行幸したのである。この明治5年から6年に掛けて殆どの門は廃止,撤去され,この時浅草見附の浅草御門も壊され,写真の様に浅草見附跡が残るのみとなった。

※当時この場所に初音森神社と大きな森があり,賑わった
と言うが,明暦の大火により,川向(墨田区)に移転した。
今は分社として神社が鎮座している。
 又すぐ近くに伝馬町牢屋敷があって,明暦の大火の際,見附の番人が,囚人解き放ちを脱獄と勘違いしてこの門を閉ざしてしまった為,2万人とも言われる焼死者と溺死者を出したと近くの馬喰町初音森神社に詳しい記事が残っている。
  馬喰町は昔,馬の取引を商売にしていた博労が住んでいた事から付けられた名前である。馬喰町3丁目の西側に平行して初音の馬場があり,その昔徳川家康が関ヶ原の合戦に出発する前,馬揃えをした所と言われている。馬場の名前は近くにあった初音稲荷から付けられた。この馬場は馬回しといい,馬場の周囲と中央に1本の土堤を築き,その周りを回れる様にしてあった。
 今の日本橋馬喰町2丁目付近には昔関東郡代屋敷が隣接しており,幕府の直轄地(天領)の年貢の徴収・治水・領民紛争の処理等を管理した関東郡代屋敷があった。この直轄地においていざこざや,訴訟問題が起った場合,農民の当事者達は問題解決の為にこの屋敷まで足を運ばねばならなかった。そうした人達が泊る宿を公事宿といい,馬喰町周辺に集中して建っていたと言う。
※初音森神社の宮司と焼残りの柱と田中氏の作った見本台,
なかなか美人の宮司ではありませんか。

 この馬喰町にある初音森神社は,太田道灌公により大社殿が建てられたと言う古い神社で浅草橋と柳橋の中間にあった。
  戦後この近くに地下鉄工事があって地中から,明暦の大火の時焼け残ったらしい,けやきの門柱が見つかり,一部がこの初音森神社に残されているが,この焼柱の見本台が現在のけやきの木で作られ,作ったのは平野町の田中季彦氏である。350年前のけやきに平成のけやきが重なって見られるのも大変おもしろい。初音森神社が保存しているので興味のある人は見て欲しい。
  柳橋と言えば花柳界の横綱的存在であったと聞く。神田川が隅田川に注ぐ所に架設されたので,初めは,「川口出口の橋」と呼ばれていたらしい。橋畔の柳に因んだという説があると言う。現在の橋は1929年(昭和4年)に完成している。
  江戸時代に橋畔は船宿が並んで大変賑わった。幕末,明治以降,柳橋は花柳界として大変栄えた。

※両柱に「柳橋料亭組合」と「柳橋芸妓組合」の字が見えるが,
「石塚稲荷神社」と言い柳橋の大事な神社だった。
※現在の柳橋船付場,屋形船が所狭しと並んでいるが,
江戸時代はここから吉原通いの「猪牙舟」が発着する
粋な港だった。
※柳橋から隅田川の川端に出ると今は立派な護岸として
整備され,素晴らしい散歩道。江戸時代は重要な船の発
着する米蔵倉庫であった。
※当時全国の大名に護岸工事と船付米蔵等の建設を命じた
。主な大名の家紋と名前がこのウロコ壁に残されている。

 浅草の奥に新吉原が出来てからは,観音参りに加えて吉原通いの遊治郎達でこの往還は更に賑わい,吉原通いの船の基地となった。新吉原へはここから隅田川を舟で上り今戸の山谷堀まで行く,「猪牙舟」等という粋な郭通いの舟が行き来したと言う。
  正岡子規の句に「春の夜や女見返る柳橋」など粋な歌があり,粋な黒板塀の料亭が多く軒を連ねていた昔の面影は今はないが,ビルの谷間に柳橋料亭組合と柳橋芸妓組合と両門柱の「石塚稲荷神社」がやけに当時の繁盛振りを思わせ,芸妓達の守神だっただろうと思う,時代の流れを感じさせる神社である。
  柳橋の川口に今は屋形船の船付場となり,ここから台場辺りに出船する。東京湾内の屋形船は今約600船位あると言うが夕暮れの台場は屋形船で賑やかだ。
  柳橋から隅田川の川端に作られた江戸風のウロコ壁が続く,昔この付近に浅草御蔵があって歴史に残る場所である。
  1603年(慶長8年)征夷大将軍になった徳川家康は名実共に天下を掌握し,江戸を全国政権の中心に相応しい都市とする「天下普請」に着手した。家康は,江戸を発展させる為には,港湾都市的形態が最良であると考え,城前方の東京湾波打ち際の方に町づくりを始めた。神田台(今の千代田区駿河台等の高台を切り崩し,その土で現在の中央区一帯を埋め立てて市街地の造成を行った。その時家康は,全国の大名に対して,「御手伝普請」を命じ,幾つかの組に編成してこの大規模な工事を進めた。今の日本橋浜町辺りから新橋付近に至る下町が生まれ,また堀川(日本橋川)が造られて着々と港湾都市としての江戸の町づくりが進展した。
  川端の護岸壁面に当時活躍した人達の中で組頭を勤めた主な大名の家紋を掲示している。
  こうして作られた浅草御蔵は江戸幕府が全国に散在する直轄地(天領)から年貢米や買い上げ米などを収納,保管した倉庫である。この隅田川の倉庫には50万石(約62万5千俵)を収納出来たと言われている。当時,大阪・京都二条の御蔵と合わせて日本の三御蔵と呼ばれ,特に重要な拠点だった様だ。
  この浅草御蔵は,浅草御蔵米と言われ,その米は主として旗本,御家人に供され,勘定奉行の支配下に置かれていたと言う。
  1620年(元和6年)浅草鳥越神社の丘を切り崩し,隅田川西岸の奥州街道沿い,現在の柳橋2丁目・蔵前1・2丁目にかけて,伊達を始め各大名に命じて埋立てさせたものである。

※(1)

 ※(1)の地図は江戸時代のもので隅田川蔵前・御米蔵のある地図である。この時代の地図は字が頭にくる方が玄門であり,大変見やすい。この地図の中には,橋は両国橋だけだが今の両国橋と比べると「回向院」のある場所から見てかなり下の方の様である。一番堀から八番堀まであって又対岸(今の墨田区)にもかなりの米蔵がある。江戸幕府が全国からの年貢米や買い上げた米などを収納した倉庫。その量55万石(約62万5千俵)と言うから,途方もない数である。
 この時代から比べると物凄い変化と言える,1つ1つ見てみると大変おもしろい地図でもある。
 追記するが家康が1607年に天守閣5層6階を建て,明暦の大火が1657年で,江戸城天守閣を始め約江戸の3分の2を焼失した。よって5層6階の天守閣は50年間だけ,江戸の町にその偉容を見せた事になる。

 いつも私は考えるのだが,徳川家康は,凄い方だと思う。日本で一番広大な平野であり気候も日本で一番良い所で,大風や気温も比較的安定している所をよく選んだものだと感心する。
 又江戸東京には,「見たり,聞いたり,探ったり」がたくさんあって,感心したり,驚いたりする所が山ほどある。これからもこの目で確かめ感動しようと思う。

平成21年9月21日 記

 

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