『歴史探訪』(38)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
“辰巳やよいとこ 素足が歩く 羽織やお江戸の誇りもの 八幡鐘が鳴るわいな”
江戸城から東南の方向に深川があります。上記の小唄は,私が入門三年目のころ習得しましたが,飾り気はないが,金で靡かない,色気を売り物にしない辰巳芸者の心意気をうたったものです。
深川に縁のある,私が尊敬する歴史上の人物は芭蕉と伊能忠敬であります。
芭蕉は大川と小名木川の合流点近くに庵を構え,そこから旅立ちました。江戸幕府が開かれて百年程経ち,町人文化が華やかに咲き,日本のルネッサンスといってもよい時代でした。
伊能忠敬は千葉県九十九里で生まれ。伊能家に婿養子に入ってから,家を再興し,かなりの財産を築きました。50歳の時,家督を長男に譲った後,江戸に出て深川に住み,測量,天文学を学びました。人生二毛作を地で行った人であります。当時の日本は鎖国をして,一見平和でありましたが,唯一世界に向けて明けた小さな窓,長崎の出島から世界の動きが伝わって来ます。17世紀はスペインの時代,18世紀はフランスの時代,19世紀はイギリスの時代といわれました。
1492年,コロンブスが米大陸を発見し,大航海時代が幕明けし,スペインは優れた航海術で,世界に進出します。1789年,フランス革命の後,出現したナポレオンは,西へ東へ領土を拡大して行きます。そのナポレオンを破った英国は産業革命によって蓄えた国力を外に向け,インドを支配し,阿片戦争で中国を亡ぼし,世界に植民地を拡げます。
日本の四方は海に囲まれていますが,周辺へ外国船が偵察にやって来ては,虎視眈眈と侵略の機会を探っているように見えたのではないでしょうか。そのような時に,伊能忠敬の技術が高く評価され,蝦夷や薩摩の探索を命ぜられ,全国へ測量の旅に出ます。
忠敬は旅立ちの前には必ず富岡八幡宮に詣でて,道中の無事と事業の成功を祈ったと云われています。鳥居を潜ると左手に忠敬の銅像があります。小柄ながら,その精悍な表情から,日本を外の脅威から守る,という強い意志が感じられます。
今の測量は,人工衛星を利用したGPS(地球規模で位置を確定する仕組)や航空写真,二点間の距離を光の速度を計測して算出できる機械により地図を作成できますが,江戸時代は,人海戦術で長時間かけて行いますので,日本全図を作成するのに数十年近くを要し,完成は忠敬の死後,師事した幕府の天文方,高橋至時の子・高橋景保によってなされました。ペリーが来航したとき,シーボルトが国禁を犯して持ち出し問題になった伊能図のコピーを携行していたそうです。
井上ひさし氏著「四千万歩の男」(講談社1992年)によると,忠敬は,幕府の命令もありましたが,自分の足と眼で,地球の大きさを計り度いという探求心があったから,そのモチベーションによって事業も成功に導かれたのではないかと看破しています。
日中は地形を測り,夜は自分で工夫した治具によって北極星の観測をしています。当時は西洋の文献から「地球は丸い。地球は地軸が二十三度半傾きながら自転し,太陽のまわりを公転している」この程度の知識はあったと思われます。蝦夷に向う途上,真北に向って二点間の距離を測り,それぞれの点から北極星の水平角を測り,その傾きの差と距離から地球の円周を推し測ることが出来ます。知識はあっても,実際に自分の身体で実感する為には大きな志がないと出来ません。忠敬が遺した日本全図が3米四方の大きさで富岡八幡宮に展示されていると聞き,出掛けましたが,イベントは大分前に終了し,見ることが出来ませんでした。何時の日か,機会がありましたら,自分の目で確認し,忠敬の偉業を偲び度いと思っております。 |