『歴史探訪』(39)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
『ねがはくは花のしたにて春死なん そのきさらぎのもちつきのころ』
これは旅に明けくれ,その願いに違わず,建久元年(1190)2月16日入寂したといわれている西行法師の詠んだうたです。花の季節になるといつもこの和歌を想い出します。
西行は鳥羽上皇の北面の武士として奉仕していました。高貴な家に生まれ,何一つ不自由なく,将来を嘱望されていた人が,若くして出家したのは何故でしょうか。一説には高貴な上臈女房と道ならぬ恋に落ち,その苦悩から逃れ,一切を捨てて旅に出たと云われています。23才から73才で亡くなるまで,人生のほとんどを漂泊の旅で過ごし,多くの和歌を残しました。
西洋音楽を作曲し歌曲の王と云われたシューベルトの作品に,「冬の旅」,「美しき水車小屋の娘」という歌曲集があります。双方は関連した物語りとなっており,水車小屋で働らく美しい娘に恋をした男が,失恋してさまよい,最後は入水自殺する,という筋書きです。西行や芭蕉のようなものの哀れさはありませんが,歌の意味をよく理解して聴けば,美しく切なく歌うバリトンの歌声に聴く者の心は打たれます。シューベルトは,ウィーンの王侯貴族の家庭教師としてお姫様に音楽を教えていましたが,叶わぬ恋に破れたと云われていますが,その思いが数々の名曲となって現代まで歌い続けられているのでしょうか。
私が西行の歌に出合ったのは,東海道を歩き始めて六日目,平成6年4月3日,桜の咲き始めた頃です。
『心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮』
東海道線を大磯で下車,海岸へ向かう途中に鴫立庵があります。歌碑があって歌の後に「あゝ湘南」と刻まれています。自動車の湘南ナンバーは若者の憧れですが,名付親は西行に違いない。800年以上の未来を先取りしたセンスは流石であります。
東海道を西へのぼり,大井川を越え,金谷宿から日坂宿へ向かいますと,坂の多い道が続きます。江戸時代,背丈が大人と子供くらい違う駕籠かきの人足がおりました。坂を上るときは前を背の低い者,後を背の高い人足が担ぎ,下るときは逆に前方を背の高い者が担ぎます。客は坂でも駕籠は水平な状態で乗ることが出来,そのコンビネーションワークが絶妙であった為,江戸からわざわざ見学に来る駕籠かきも居りました。
坂の下に大きな石があり,今では夜泣き石として近くの神社に保存されていますが,広重の浮世絵では道の真中にあって旅人が眺めています。昔,子を孕んだ旅の女性が山賊に襲われて殺害されましたが,ちょうどその時生み落ちた赤子が,弱って泣く力もなく,代りに石が泣いて人を呼び子供の命を助けたという伝説があります。
『年たけてまた越ゆべしと思いきや いのちなりけりさやの中山』
これは西行が晩年,奥洲の藤原氏を訪ね,東大寺再建の勧進を行う旅の途中に詠んだ,西行生涯最高の傑作と云われています。
西行に憧がれ,多くの影響を受けた芭蕉もここで『命なりわずかのかさの下涼み』という俳句を詠んでいます。
次回は俳聖芭蕉と奥の細道を探訪します。 |