東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(40)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 『花の雲鐘は上野か浅草か』
 3月28日に催された東海道ネットワークの会は,「谷根千の町並みを訪ね,下町気分を満喫しよう」という主旨で,日暮里駅に西は京都から,北は会津から30名の仲間が集って参りました。小生は一年振りの参加です。案内は,神田川ネットワークの大松騏一氏です。作家の森まゆみさんら3人の主婦がまち起しを始め,タウン誌「谷根千」を創刊以来25年,タウン誌の名がそのまま地域の代名詞となり,今やウォーキングファンの大人気の街となりました。夕やけだんだんを下り,谷中銀座をぶらぶら,よみせ通りの途中を曲ると不忍通りに出ます。不忍通りは不忍池から目白通りまでを云いますが,大松氏の説明によって,忍者に関係があることを知りました。藩祖を藤堂高虎に仰ぐ伊賀上野藩は今でも忍者の里と云われています。藤堂家の屋敷があったことから忍ヶ丘と呼ばれ,徳川幕府は西の延暦寺に対抗して寛永寺を建て,徳川家の菩提寺としました。以来上野と命名しましたが,江戸時代になって戦乱がなくなり平和になったので,忍者は不要となり,琵琶湖を模して掘った池を不忍池としました。
 冒頭の俳句は伊賀出身の芭蕉の作で,ちょうど今頃の季節をうたったのでしょうか。
 芭蕉は藤堂家の藩士の家に生まれました。生家が忍者の里にあった為,奥の細道の旅は幕命を帯びて東北地方の諸藩を監視する為の隠密で,俳聖としての芭蕉は仮の姿であるという説もあります。奥の細道を往くスピードが異常に速く,普通の人の足では到底歩けない行程であります。しかし,これは芭蕉の日程が実行とずれている為で,むしろ随行した曽良の日記の行程のほうがまともなスピードであり,芭蕉は時間の観念がうすい所為だと考えれば納得できます。私は何百年も後世に残る作品を創作しながらの隠密行動は不可能であると思います。
 前置きが長くなりましたが,今回は芭蕉の足跡を辿りながら歴史探訪をします。
 幕命により,延宝5年(1677)から施工された神田上水の改修工事に現場監督として赴任し,文京区関口町にある龍隠庵に起居していましたが,その後小田原町(現日本橋室町一丁目)の貸家に住み,桃青と号し,延宝6年(1678)宗匠として旗揚げしました。
 奥の細道への旅立ちは深川の芭蕉庵からです。舟でおよそ三里程遡ると千住大橋の南詰に出達の碑があります。ゆっくり上っても半日の行程です。
 私が日光街道を歩き始めて2日目に,日比谷線松原団地駅の近く,綾瀬川に沿って矢立公園に出会いました。ただ通過するだけでこんな立派な公園が造られたのは,草加に住む仲間と句会を催したからではないでしょうか。その先,栗橋で利根川を渡った記録が石碑に残っています。
 『田一枚植えて立去る柳かな』これは小生が街道歩きをして出逢った芭蕉の句で芦野宿の辺りでした。句碑の向こうに遊行柳という謡曲のテーマになった柳を見に寄って,たまたま田植えの季節でもあり右の句をよんだようです。
 私の奥州街道行脚は白河城でとまっておりますので,これより北は芭蕉の弟子になった積りで歩を進めます。
 仙台を経て松島に出ます。
 『松島やあゝ松島や松島や』
 あまりの絶景にまともな句ができなかったか,或いは伊達藩の探索で句作どころではなかったのか。
 仙台の北白石の名物に銘菓「萩の月」があります。日が暮れて宿を乞うた家でたまたま遊女が泊っていたので
 『一つ家に遊女も寝たり萩と月』という句が出来ました。
 尿前にて
 『蚤虱馬の尿する枕元』
 東北地方は人と馬が同じ屋根の下に住むことは当り前で,今でもまれに農家でみられます。
 山寺にて『閑けさや岩にしみ入るせみの声』
 ようやく侘び寂びの世界に入ります。
 『五月雨をあつめて早し最上川』
 たった17文字でダイナミックな表現をしたと思えば
 『五月雨の降り残してや光堂』
  何百年という風雪に耐えて藤原時代の栄華が辛うじて保存されている様は平家物語で語られている諸行無常のことでしょうか。
 毛越寺にて『夏草やつわものどもが夢の跡』
 今,世田谷美術館で平泉展が開かれており,先の二句を想い出し感慨無量でありました。
 『象潟や雨に西施が梨の花』
 以前秋田県に出稼ぎの大工さんを募集に行ったとき,案内してもらいました。海に小さな岩が点在して,名勝と云われていましたが,天変地異で名勝は壊され,名句が残りました。
 『荒海や佐渡に横たう天の川』
 高校の授業で「奥の細道を講義して下さった先生が,この俳句を採点して何と百万点をつけたことが未だ強く印象に残っています。
 芭蕉の奥の細道の旅は大垣で終わり,その後大阪で病に倒れ,遺言によって大津の義仲寺木曽義仲の隣に葬られています。
 『旅に病んで夢は枯野をかけめぐる』
 悲運の武将義仲と芭蕉の墓,そして句碑が仲良く並んで建ち,今でもお詣りする俳句のマニア,旅人たちが列をなしています。
 以上芭蕉の名句を十句足らず挙げて参りましたが,これらの句に曲をつけるとどんな作品となるのでしょうか。日本の作曲家では山田耕作がよいと思います。
 中国唐時代の李白の詩に大作曲家マーラーが作曲した「大地の歌」が世界中で演奏されています。
 芸術の世界では洋の東西に跨るコラボレーションが試みられています。
 これは叶わぬ夢ですが,ピアノの詩人ショパン,或いはピアノの画家と云われたドビッシー作曲による芭蕉が聴き度い。

 



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