東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(45)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 『はまぐりを食へば道が遠くなり』
 これは江戸時代に作られた旅に因んだ川柳です。東海道を西へ上がる旅人は,今の名古屋の熱田神宮がある宮宿から七里の渡しで伊勢湾を横断し,桑名に上陸します。名物焼き蛤を食べて南へ向かいますと,どういう訳か,一里間隔の筈の一里塚が一里半間隔になって旅人は戸惑います。これに似たことを甲州路で体験したことがあります。今から10年程前街道歩きも大分慣れ,国土地理院発行の地図を携行するようになりました。韮崎を歩いていたときは,2万5千分の1の地図でしたが,東隣の御岳昇仙狭,その東,甲府は5万分の1でした。地図を見ながら軌跡をチェックしていますと,地図上で10センチ歩くのに30分要したのに,隣の地図では1時間以上かかるのは何故だろう,と不思議でならなかったのが,2,3日後冷静に考えますと,縮尺の違いが原因であると判明し,納得しました。
 先日,東海道ネットワークの会から例会の案内状が届きました。平成21年9月9日〜10日は1泊2日で伊勢参り,平成21年10月10日〜11日も1泊2日で「大津祭りと東海道シンポジウム参加」でした。両方とも出勤日と重なるので欠席の返事を出しました。伊勢は未だ行ったことがないので大変残念,大津祭りは東海道中のとき,たまたま曳山祭りの日で運良く見ることが出来ました。会報には当日の行程と見所が懇切丁寧に解説してありました。これを参照しながら,伊勢参りはいつの日か行く時の予習,大津祭は東海道中の復習をする積りで歴史探訪をします。
 桑名から四日市へ向かい,その南,日永という処に泉が湧いていて旅人は水分の補給をします。右へ京,東海道,左伊勢道の道標があります。伊勢街道を南下しますと,神戸,白子,上野,津,雲出,松坂,小俣,外宮,内宮まで距離は18里。歩くと2,3日の行程です。ネットワークの皆さんは,午前10時に四日市駅に集合,バスで南へ向かうのでしょうが,途中見所も多く,その日は松坂に泊って翌日伊勢神宮に入ります。津は三重県の県庁があり,初代藩主となった藤堂高虎が築いた津城がありました。松坂は商人のまちで,三井家はここから出ています。国学者本居宣長は松坂の商家に生まれ,古事記の研究に生涯を捧げ,古事記伝を執筆しました。
 日本書紀によれば,伊勢神宮は,垂仁天皇25年,天照大御神を鎮座する為に創建されました。外宮と内宮があり,敷地の大部分は森林で,5400HAあり,うち半分の2500HAは天然林で,人工林もあります。西暦685年(天武天皇14年)式年遷宮の制が制定され,以来20年に一度建替えられます。平成25年に「第62回神宮式年遷宮」が斎行されます。遷宮の後の古材は神宮とゆかりのある全国各地の神社の造営などに再利用されます。例えば,宇治橋の内側の鳥居には内宮正殿の棟持柱が,外側の鳥居には外宮正殿の棟持柱が用いられています。さらに20年経つと,内側の鳥居は,関宿の東の追分,外側の鳥居は,桑名の七里の渡しの鳥居となります。
 もともと伊勢神宮は皇祖神を祀る神社として,一般人は参拝できませんでしたが,平安時代以降,天皇,貴族の権威が衰えると,武士,そして庶民にも伊勢信仰が広がり,室町戦国時代ころには庶民の伊勢参宮もかなり一般化していました。
 江戸時代に入ると熱狂的になり,50〜60年周期で人々が一時的に押し寄せる「おかげ参り」が流行しました。私は桑名の一の鳥居,日永の二の鳥居,関宿にある東の追分の鳥居は見ましたが,いつの日か,伊勢参りを実現したいと,楽しみにしています。
 次回は東海道中で見た大津祭を復習します。

 



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