『歴史探訪』(46)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
前回予告しました大津祭りについて探訪します。私と友人萱原画伯が東海道を休日の日に尺取虫のように歩き続け,あと一息で完遂しようという頃のことです。京都三条大橋到着は10月23日と決めていました。平成6年(1994)は平安遷都1200年を記念して時代祭りが盛大に開催されることを知りました。毎回休日を利用して歩いておりましたが,時代祭に合わせて初めて休暇願いを出し,晴れて10月23日に三条大橋に立つことが出来ました。
大津は京都から草津をはさんで2番目の宿場に当ります。近江国は「祭りの宝庫」と云われており,今も多種多様の内容を有した祭りが各地域に継承されています。近江の祭りはその形態からみて3つに分けることができます。
(1)古代,中世の祭祀形式を今に残す湖北の行事,四日市薬師堂裸おどりなど民俗行事的なもの
(2)春照(伊吹町),朝日(山東町),日雲(信楽町),油日(甲賀町)などの花笠太鼓踊に太刀振りを加えたいわゆる室町時代に流行した風流おもかげを伝える祭礼
(3)近世の大津祭,長浜曳山祭,日野祭,水口祭,大溝祭など曳山を主体とした祭礼があります。これ以外に各集落の小さな祭りを加えれば1000を越すのではないかと考えられます。祭りの内容,形式は千差万別ですが,そのほとんどは五穀豊穣,無病息災,集落安全など庶民の祈りが籠められています。祭りは集落,地域における年中行事のなかで重要な位置を占め,地域共同体の大きな柱となっています。
以上は東海道ネットワークの会の会報で知ることが出来ましたが,私が大津祭を見ることが出来たのは全くの偶然で,平成6年10月10日,今から15年前でありました。前々日の夜行列車で東京を発ち,水口宿から歩き始め,途中まで画伯と同行し,京都で一泊,翌日は2人別行動で,画伯は京都の名所,南禅寺山門などをスケッチし,私はひたすらてくてく歩いて,待ち合わせた場所が大津駅前でありました。私は途中体調を悪くして,予定を大分遅れて,瀬田の唐橋の手前から電車に飛び乗ってようやく約束の時刻に間に合いました。画伯は琵琶湖を眺めて戻る途中,お祭りで道路が渋滞し,あたふたとやって来ました。折角だから祭り見物をしよう,ということになりました。
大津祭は江戸時代のはじめに,鍛冶屋塩売治兵衛が狸面で踊ったことから始まったとされていますが,寛永15年(1637)から三輪の曳山(山車のこと)を作り,やがて元禄,安永年間に現代の曳山がととのえられました。10月10日はコプラン織(16世紀,ベルギーブリュッセル製)や装飾金具にかざられた13基の曳山が市内を巡行しますが,これは江戸時代の大津の経済力を象徴するもので,同時にこの祭を支えて来た大津町衆の心意気を示すものです。
大津祭の特色のひとつに,曳山それぞれにとり入れられているカラクリがあります。カラクリの題材は,中国の故事や能,狂言からとったもので,文化水準の高さが理解できます。このカラクリは巡行中「所望」の声がかかると五色布の采配棒の合図によってからくり囃子に変わり,二層式の曳山屋台で人形をはじめとする種々のからくりが披露されます。
13の曳山にはそれぞれ銘がありコンセプトを持っています。龍門滝山(太間町),源氏山(中京町),石橋山(湊町),西行桜狸山(鍛冶屋町),西王母山(丸屋町),猩々山(南保町),湯立山(玉屋町),月宮殿山(上京町),西宮蛭子山(白玉町),神功皇后山(猟師町),殺生石山(柳町),孔明祈水山(中掘町),郭巨山(後在家町,下小唐崎町)の13輪です。
そのうちの一つ,私が最も興味深かった孔明祈水山を紹介しますと,三国志の英雄,蜀の諸葛孔明と魏の曹操が戦ったとき,孔明が流れる水を見て「敵の大軍を押し流して下さい」と水神に祈り大勝した故事によります。山は万延元年(1860)まで福聚山と云いました。俗に祈水山とも云います。所望は,孔明が扇を開いて水を招くと,水が湧き上り流れる仕掛けです。
東京の神輿のように激しい動きや迫力はありませんが,見物人が大勢かたまっている処に来ますと,曳山の上からちまきが蒔かれ,それを奪い合いクライマックスとなります。
15年振りに大津祭の復習をして居りましたら,当時の感動が蘇って来て熱くなりました。 |