非運の将九郎判官義経を哀れみ,不幸な人の身になって考えることを判官びいきと言っている。感情として判官びいきは心温まることだが,これは感情(パトス)の問題であり,時代は一時パトスで揺れても,次第に理性(ロゴス)の世界に戻るものである。
何故,頼朝は義経を追いやったのか,いくつかの歴史書を読んで,やっと私なりに,成程そうだったのかと納得したので,以下述べることにする。
頼朝は平治の乱(注)に敗れて死んだ源義朝の三男,義経は九男である。頼朝は父の敗戦死亡により伊豆へ流され,幼少の義経は鞍馬の寺に預けられた。義経は鞍馬で,武芸の達者な武士(俗説では天狗)に武術を教わり,小柄だが身のこなしが早いのでかなり上達した。
義経22才の時,兄頼朝が挙兵したことを知り鎌倉の頼朝のもとへ馳せ参じた。
当時,木曽義仲の軍勢が京都へ入り街で乱暴を働いていたので,義経は兄範頼と力を合わせて義仲を滅ぼした。
その後,後白河法皇は清盛亡きあとの平家を討つように頼朝に命じ院宣を与えた。法皇や殿上人達は福原遷都等清盛の専横を憎み,清盛が亡くなったので一挙に平家を滅ぼそうと考えたのである。
当時,義経の兄範頼は島津氏に攻められて苦しんでいた大友氏を助けるため,大軍を率いて九州へ出陣し島津氏と対峙していたので義経に与えられた武士は数百名位だったらしい。一方,平家側も院宣を与えられた源氏と戦うと逆賊になるので,平家の傘下にいた豪族達が皆自分の領地へ戻ってしまったため,やはり数百名位しか残らなかったようである。当時の源平合戦の絵巻物を見ると両軍共7〜8人しか乗れない小舟に乗って戦っている。まさに小人数同士の戦いである。
平家は京都を離れ福原(神戸市)へ陣を敷いたが,義経の奇襲に敗れ四国の坂出海岸へ逃れた。しかし,ここでも丘側から奇襲した義経に敗れ,舟で壇の浦へ逃がれたが,ついに力つきて幼い安徳天皇と共に海に飛びこんで文治元年(西暦1185年)滅亡した。世の中は平家から源氏へ移ったのである。
義経が元歴元年(西暦1184年)2月一ノ谷に平氏軍を破って都へ戻ると法皇は彼の功績を称えて8月に左衛門少尉兼検非違使尉の位を与えた。
実は,これが問題だったのである。
頼朝は義経以下の武将が出陣する時に,朝廷からの恩賞については私が一括して申請するから,勝手に貰ってはいけないと申し渡している。朝廷や殿上人達は一致団結している関東武士達に,きっと不公平な恩賞を与えてその分裂を図るに違いないと考えたのである。彼等は強力な関東武士達が平氏に代って再び朝廷や殿上人達を圧迫するのではないかと惧れていたので,かつて平氏に対して行ったと同様の不公平恩賞を与える筈であると頼朝は考えたのである。
一方義経は藤原時代からの習慣で,我々は朝廷の命を奉じて戦ったとしか考えていなかった。武士は殿上人達に仕える立場としか考えなかったのである。
しかし,頼朝は違った。彼は時代の変化を認識していた。これからは武士の時代だ。武士が殿上人達に代って政治を行う時代になる筈だと考えていたのである。歴史はまさにその通りに動いている。鎌倉時代,足利時代,戦国時代,豊臣をへて徳川時代,まさに武士の時代になったのである。
このように見ると義経は優秀な大隊長の器で,極地戦での戦術は非常に優れているが,時代の流れをじっくり見て身を処し,進むべき道を選ぶ戦略的思考が全くない人物であることがわかる。一方,頼朝はまさに優れた政治家である。変革の時代を生きぬくには,広い視野をもって対応する必要があることを示している。
義経と頼朝を見て,私は現在の我々木材業(販売業,製材業,建材業等)のことを考えてしまった。
社長以下10人足らずの木材業の社長は義経のように機敏に動く必要がある。在庫や売掛債権の動き,資金繰り,そして仕入,売上等々を常に見て,何とか今月を,今年を黒字にするために先頭にたって働く必要がある。店に座ったまま,新聞を読みお茶を飲んでいては駄目である。
しかし,休日には頼朝的な戦略的思考をめぐらすことも大切である。今やっている仕事に将来性があるのか,需要者はどのような木材を欲しているのか,需要者の為になる木材は何なのか,そのなかで自社の体力,能力でできることが無いか,社長,専務は休日にはゆっくり考えをめぐらし,話しあって進むべき道を見つけていかなければならないのである。難しい時代になったものだ。
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