東京木材問屋協同組合


文苑 随想

江戸東京木材史を読んで(その4)

−昭和初期の大不況−

榎戸 勇


 昭和は当初より不況で始まったが、昭和4年末から昭和7年まではまさに大不況であった。
 昭和5年12月5日に東京木材問屋同業組合が材界振興策懇話会を開催した。この会の内容は速記されており、幸いにも戦災を免れて保存されていたので『木材史』の682頁から708頁に詳しく載っている。
 懇談会の出席者は代議員、評議員および役員以外の有力業者で、総勢37名である。
 冒頭の黒田善太郎組合長の挨拶は格調高い立派な挨拶であるが、これは懇談会における出席者の発言を読んでから、最後に味わって貰うとして、まずは685頁の「同業組合法の改正と其の強化」についての豊田荘太郎(岡壮商店)の発言(685頁)から読んで頂きたい。

 懇談会での各氏の発言のなかに、同業組合規約の第10条と第18条のことがたびたび話題になるが、第10条は木材の取引は原則現金取引とすること。但し売手の自己責任で掛売りをすることができるが、万一焦げついても組合は関与しない旨の規定。第18条は出売りの禁止規定である。当時のトラックはフォードかダッジの4トン車であるが、トラックへ製材品を積んで助手席に店員が乗り、売りこみに行く出売りが多くあった。出売りは買手に足元を見られ安売り競争になるので、出売りはやめるとの規定である。同業組合は規定に違反しても、違反組合員を罰する規定がないので、罰則をつくるべきだとの意見が出席者から述べられている。
 さて、出席者の悲鳴をあげるような発言をゆっくり読んで頂きたい。どうにもならないのである。売上は3分の1、しかし経費はいくら節約しても2割か3割しか削減できない。小店でも1ヶ月の経費は数百円、大店になると数千円必要なので赤字がどんどん膨らんでしまうのである。ちなみに昭和4年の東京の木材業者(東京市内全体)の整理と内整理は70件、昭和5年には更に拡大して整理発表50余件、内整理を加えると百数十件に達したと『木材史』に書いてある。

 そして整理はついに大手筋に及び、東京一の名門、武市木材(武市森太郎)が昭和5年11月に破綻して、『木材史』680頁に資産負債が記載されている。資産のなかに震災手形(注)が約85万円、焦げついている売掛金が約30万円あるため、買掛金77万円、住友銀行の当座借越と単名借入の計166万円が決済できなくなったのである。
 大阪、名古屋等の木材業者は苦しいながらもほとんど倒産していない。従って東京の木材業者倒産の直接の原因は震災手形にあったのである。震災手形を取立に回すと多くのものが不渡になって、不渡が不渡を呼び連鎖倒産になり、次から次へとバタバタ潰れてしまうのである。

 武市木材が85万円もの震災手形を取立に回さないでじっと持っていたのは、もしこのように多額の震災手形を取立に回したら不渡が不渡を呼んで東京の木材業界は潰滅的打撃を受けたであろう。取立に回さないでじっと持っていた武市森太郎は流石に立派と言える。

 懇談会で売上が3分の1という発言がしばしばあるが、『木材史』678頁に昭和4年12月(ニューヨーク株式暴落の2ヶ月後)の木材価格と、第一次世界大戦終了後の好況期の大正9年の価格との比較表があるので見ると、売上3分の1という発言が、あながち誇張でないことがよくわかる。
 何としても、昭和初期は大変な時代だったのである。

(注)震災手形
  関東大震災で京浜地帯は大被害を受け、金融機関の業務が混乱したので、一定期間債務の返済を法令により停止した。混乱防止のためである。しかし金融機関の業務が次第に回復したため、1年以内に全て解除されているので武市木材破綻の昭和5年には当然モラトリアムの規定はなかったのである。

 (敬称は全て省略しました。ご容赦ください。)

H.22・4・5記
 

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