前月号に続き昭和初期の大不況であるが、『木材史』678頁の「木材相場価格比較表」をもう一度見て頂きたい。震災直後の価格もある。その価格は大正9年の好況期に比べ安いが、好況期から次第に値下がりした価格が震災で一時的に値上がりした時の価格である。この価格は2ヶ月間だけである。震災の復興需要を期待して、米材、北海道や樺太材、そして内地材が東京へ大量入荷し、その年の11月には山積み在庫を見て売れ行きが鈍り、12月には値下がりに転じて震災前の価格、あるいは抱え込んだ大量在庫の処分で更に安い価格に下落したまま大正が終り昭和初期は更に値下がりしたままであった。木場の木材業者は苦しい経営を続けたが、その年10月のニューヨーク株式市場の大暴落で世界的大不況に突入した。そして昭和5年11月に名門武市木材が行き詰まり、木場の木材業界は息を呑み、先行きの見通しが立たなくなってしまった。武市木材の持つ多額の震災手形が取立てに回ったら、どの店がどうなるのか全く検討がつかないのである。(武市木材の資産負債『木材史』680頁参照)
当時、農村の次男、三男等が東京で働くために上京するので、東京の人口が増加したが、そのほとんどが震災の被害を受けていない新市内(新東京木材商業協組の地域)に住むようになり、新市内に沢山の貸家が建てられた。建て主は従来の地主が多いが、新たに雑木林を買って宅地造成をして貸家を建てる人も沢山いた。この需要に応えるべく新市内に木材業者が急増した。
先月、出売りのことを述べたが、下町の木材業者は震災で大被害を受けたうえに、震災手形による連鎖倒産の惧れがあるので、売り先は新市内の木材業者が中心になって、必然的に出売りが増えたのである。
さて、武市木材(武市森太郎)の倒産であるが、武市木材で修業して独立した人々で有力な木材業者になっていた浜本正衛、坂東伊平、藤井勘三郎、馬場宇八等が力を合わせて、黒田木材の債権、債務を精算するための会社、武市商店をつくった。幸いにも昭和7年から前年の満州事変を受けて軍備拡張のための積極財政になり景気が回復して、木材需要も増え価格も上昇したので、戦災手形や焦げつき債権の回収もかなりでき、在庫処分も進んで、負債の処理が円滑に出来たという。やはり武市森太郎の人格の賜物であろう。
ところが景気の回復が始まった矢先の昭和7年7月、同業組合長の黒田善太郎(黒田商店)が破綻した。(『木材史』744頁)黒田善太郎は早稲田大学出身で大正5年に米材の輸入卸売問屋として創業、忽ち大手業者となり同業組合長として業界の指導者になった。しかし大震災の痛手もあり、震災復興需要が一巡した昭和5年以降の経営は必ずしも順調ではなかったようである。
戦後、昭和25年頃からは大手商社が木材部を創設し、南洋材、米材、北洋材等の輸入をするようになり、一次問屋は荷受地で円建てで原木や製材品の購入が出来たが、戦前は大手木材業者が木材輸入業者を使って自らのリスクで先物の輸入をしていた。市況やドル相場が安定している時はよいが、相場が動くと時に大きな利益もあるが、反対に大損を被ることもあって、まさに相場師の世界であった。戦後の大手商社は外為室を創設し、輸出部門と輸入部門の外国為替を相殺精算するので、外為相場の動きに対してはかなり安全な仕組みになっているとのことである。
昭和7年からは軍備拡張時代、軍国主義の時代になり、その出費を補うため国債が沢山発行されて、軍需景気で木材界も潤った。しかし昭和12年日中戦争、中国の広大な山野での戦いは泥沼状になり進むことも退くことも出来ないまま昭和16年12月に太平洋戦争に突入、米英蘭中との戦いは緒戦だけは勢いがよかったが物量とレーダー等の新技術の差が大きく、昭和20年8月に無条件降伏、敗戦国として戦後の歩みが始まることになる。
本所深川は昭和20年3月10日の大空襲で焼け野原、戦後本所深川の木材問屋は草茫々の焼け跡から始まったのである。
戦後は私自身の歩んだ道である。大学卒業は昭和24年3月だが、父が一人で苦労している姿をみて、昭和22年頃から学業半分父の手伝い半分で私の材木渡世が始まった次第である。
(氏名に敬称を省略させて頂きました。)
|