東京木材問屋協同組合


文苑 随想

江戸東京木材史を読んで(その6)

-戦後の動き-

榎戸 勇


 戦後は私自身が歩んだ道であるが、戦後に移る前に戦時中のことに少しふれておきたい。昭和6年の満州事変、翌年の上海事変を契機に軍備拡張のため積極財政となり、日銀引受の戦時国債が次々と発行された。表向きには景気が回復して木材需要も増え、材価も上昇し業界は久々に活況を呈した。しかし、昭和12年7月に日中戦争が勃発すると、全ての財が軍用品優先になり、民需は統制経済の枠にはめられ、紆余曲折があったが最終的に木材同業組合は解散させられ、個々の木・製材業者も全て廃業の憂き目にあって、木材の集荷販売は各県の地方木材会社に集約させられた。東京では東京都地方木材(株)が武市昇太郎社長のもとで設立されたが、公定価格のもとでは集荷も軍用材の供用も思うようには出来ない有様だった。公定価格もたびたび改訂(値上げ)され、まさに朝令暮改、混乱したまま昭和20年8月の敗戦を迎えたわけである。

 戦後はマッカーサー元師による米国による占領、(但し日本の内閣を認めての間接統治)であるが、政府は戦時補償等で資金をどんどん供給したので超インフレになった。木材は進駐軍(占領軍)用の需要が沢山あったが、価格は公定価格で縛られており商いにならなかった。東京都地方木材は解散させられ、個々の木製材業者の営業が認められたが個々の業者への集荷枠と、戦災で住居を失った人々への需要者枠のかき集めの範囲でしか集荷が出来ず、また、経済警察がいきなり入って来て公定価格を守っているか否かの検査をするので、ほとんど商売にならなった。
 昭和23年米国のドッジ博士が公使として来日した。超インフレを抑えるため急激な金融引締めを行ったので一転して大不況になり、翌昭和24年には木材価格は暴落、公定価格を下回る迄になった。

 そして、翌昭和25年1月1日から、木材は一切の統制が外れ自由に商売が出来るようになったのである。
 しかし、木場の業者は戦災で店も住居も全て失い資金難の為、自由営業も苦しい門出であった。
 私は昭和24年3月に大学を卒業したが、昭和22年頃から父の手伝いをしていたので、そのまま木材業界に入った。

 また、ドッジ博士と共に来日した経済学者のシャウプが日本の税制の改革を行ない、法人税の申告納税制度を発表した。私は木材取引が自由になると同時に店を株式会社にした。幸い私は第三商業学校で複式簿記を学んだので、(大学は経済学部なので会計学の講義は全く受けていない)簿記は得意であり法人化に移行しても複式簿記による経理は楽に出来た。

 さて、自由化後の木材商売であるが、私共は原木屋なので、流通の主流を占める一般製材品の動きは垣間見る程度であるが、木場問屋の商売が軌道に乗った頃、製材品市売が次々と出来た。東京木材市場(株)が深川千石町で製材品市売を開始、また、木場問屋の有志による東京中央木材市場(株)も設立された。問屋商いは付売と市売の二種構造になったのである。

 昭和35年頃迄は我国の木材価格は国際価格より若干安かったので、木材輸入は合板用や内装材用のラワン丸太、土木用の米松大中角、木曽桧に代わる米桧丸太、和室の建具や内装材用のノーブル、スプルースの丸太等が主であった。しかし昭和36年、池田勇人内閣による所得倍増計画で景気が上昇した。戦後の雨露を凌ぐだけの住宅から本格的な住居に建替える人が増え、木材需要が急増した。昭和34年頃から木材相場も引締っていたが、昭和35年には我国の経済成長率が実質で15.6%の伸びを示し、翌年も実質で13.3%と急成長が続いた。(実質成長率は物価上昇を差引き調整した成長率)、住宅着工も大幅に増え、木材価格が急騰した。

 これを見て商社は米栂丸太の輸入に取組み、清水、広島を始め各地で米栂製材工場が操業した。木場の問屋の多くは米栂製品を扱うようになり、米栂製品時代になった。
 一方、富山、新潟等の日本海側には北洋材が入り、エゾ松製材品も木場へ入ってきた。
 木場問屋の扱い品が外材中心になってきたのである。

 その後、田中角栄内閣の日本列島改造政策で昭和47年は木材暴騰。例えば紀州のスギ柱角は7月迄40,000円位(立方米)だったものが11月には100,000円と2.5倍になった。これは多分に仮需の影響と思う。翌48年6月には58,000円に値下がりしている。昭和47年秋に、石油産油国が一斉に原油価格を大幅に引上げ、石油漬けになっていた先進国経済を揺さぶり不況時代に突入してしまった。

 その後の動きは若い方々も大凡は知っていると思うので、今回はここで筆をおかせて頂く。
 尚、私は業者の動きを中心に述べたが、組合も戦中戦後大きな試練に会っており、今日の組合は全役員や組合員の一致協力の努力の賜物であることを付記させて頂く。

平成22年5月3日 記

(注)昭和47年の木材暴騰価格は『木材史』の1187頁を見て頂きたい。まさに国産材製材品全てが暴騰している。昭和39年からの超金融引締めで木材価格はそれ以降長く低迷を続けジリ安の状況であったものが急反発したことがわかる。尚、翌昭和48年になっての値下りが、比較的小さいのは、原油の急上昇で船運賃だけでなく国内のトラック運賃をはじめ全ての物資が値上がりしたため、コストプッシュで木材価格の下落が下支えされたからである。例えば農業用の化学肥料や家畜用の配合飼料も2倍位になったので、食料品が全て大幅上昇、日常生活必需品の全てが高くなり、池田首相はその責をとって退陣している。当然人件費も後追いではあるが上っており、石油の大幅上昇で世界経済全てがスタグフレーション(不況下の物価上昇)になったのである。
 以上、念のため付記させて頂きます。

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