新聞のコラム欄に中国で論語教育が最近見直され、一部の師範学校で行なわれているとの記事があった。政府が経済の自由化を進めた結果、国の経済規模は拡大しGDPが大幅に伸びたが、拝金主義が広がり金儲けのためには何でもし、金儲けだけが人生の目的であるかのような人々が増えていることへの反省であろう。
私共、戦前の旧制中等学校(5年制)で学んだ者は、論語は必読書で、3年生の漢文の副読本は論語だった。論語が心の隅、体の隅に今もそこはかとなく残っているような気がする。
「片手の算盤、片手に論語」という言葉を思い出した。渋沢栄一の言葉である。そこで渋沢のことを少し調べてみた。
渋沢栄一は天保11年(1840)に埼玉県深谷で生まれた。養蚕と畑作、そして藍の卸売りもする農業と商業兼業の家である。父はかなり学がある人だったらしく、栄一は幼い時から父に論語を学んだといわれている。
江戸に出た栄一は勉強会で知り合った一橋家の家臣平岡円四郎(後に桜田門外の変で水戸藩の志士により殺害された。)の勧めで一橋家に仕えることになり、京都へ上った。
慶応3年(1867)一橋家の当主慶喜の弟昭武がパリの万国博覧会視察に行くことになり、栄一も随員の一人として参加させて貰った。パリでガス燈、上下水道、病院、会社、銀行等を見て栄一は驚いた。そしてそれらの知識を熱心に吸収した。また身分のへだてがなく偉い軍人と商人や銀行家が交際しているのも見た。身分差がないのである。武士が農工商を従えている我国とは全く異なる社会である。
栄一達が欧州に居る間に一橋慶喜は徳川15代将軍になりそしてまもなく将軍職を降りて明治維新、慶喜は謹慎して静岡で暮らしていたので、栄一も静岡で慶喜に仕えていたが、明治政府から呼び出され、民部省租税正(主税局長)に任ぜられ、農民に対する地租(藩主へ納める上納米(またはお金)を主とする税の改革を命ぜられた。しかし上司の井上馨の退任に伴い栄一も辞職して、民間で自由に動くようになり、明治6年に第一国立銀行を設立した。国立となっているが、これは国の法律(在任中栄一が原案をつくった法律)によって設立した銀行という意味で、出資は三井組100万円、小野組40万円、そして渋沢は僅か4万円、その他一般が40万100円という民間銀行である。この銀行は国立の2字を外して第一銀行となり、三井は分かれて三井銀行(現・三井住友銀行)となったが、第一銀行は勧業銀行と合併して第一勧銀、そして富士銀行との合併によりみずほ銀行として今日に至っている。
また、栄一は東京商法会議所(現・東京商工会議所)を創設し、商売のやり方、心得、そして商人達の親睦と資質の向上に努めた。
商法講習所を明治7年に商法会議所のもとに銀座5丁目の商家の2階で創設したのも栄一である。商法というと現在は民法、商法というような法律のことであるが、明治初年にはこのような法律はまだ出来ていないので、この講習所は論語にもとづく商業道徳を下敷に複式簿記、外国人との交易のために必要な英語を中心に教えた。この講習所は明治18年文部省の所管になり、神田一橋に移って東京商業学校、東京高等商業学校を経て大正9年に東京商科大学に昇格、現在商学部、経済学部、法学部、社会学部をもつ社会科学の日本における中心的存在になって、実業界の担い手を多数生んでいる。現在の一橋大学である。
神田一ツ橋にある一橋大学の同窓会館のロビーに渋沢栄一の胸像が安置されているが、同窓会の名稱を如水会と名づけたのも渋沢栄一とのことである。「君子の交わりは淡きこと水の如し」(『論語』)からとった言葉と聞いているが、余りベタベタせずサッパリとした気持ちで交友するのが望ましいとの意味らしい。
私は如水会館へ年5〜6回は行くが、ロビーの渋沢栄一の胸像に必ず一礼している。
渋沢栄一は我国実業界の基礎を築き育て、昭和6年に91歳で永眠した。本当に立派な生涯である。私共も「片手に論語、片手に算盤」の心を忘れずに、浮利を追わず、扱い材の需要や供給、世の中の変化を見て、一歩一歩足許を固めながら営業をする必要があろう。
(敬稱は省略させて頂きました)
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