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※「埋木舎」の玄関。井伊直弼が17歳から、
32歳までの間過ごした屋敷である。 |
※彦根城は通称、金亀城とも言う。国宝、複合式望楼型
3重3階地下1階、遺構(天守、櫓、門、塀、馬屋、
石垣、土塁、堀)こぶりだが、内容はすばらしい天守
と言える。 |
日本の城は世界に類がない。日本特有の伝統文化を継承する特殊な建物である。最近、城に関心を持つ人が増えて、再建もあちこちと増えて来た。伝統文化の継承を考えれば、文化財の価値としては、500年〜800年もつ木造以外は考えられないのである。
日本の国宝の城は「姫路城」「彦根城」「松本城」「犬山城」の4ヶ所でいずれも木造建築で350年以上前の城である。
「彦根城」は近年、改修工事を終え、こぶりながら見事な容姿をあらわした。「彦根城」に招きもあって出掛けることになった。
まず、「井伊直弼」が青年時代約15年間も過ごしたと言われている「埋木舎」を先に記しておきたい。
この舎の今の館長は、東京と行き来している「大久保治男」氏で、他に大学の名誉教授をされている。以前からお伺いしたいと思っていたところ実現した。
大久保先生は当日公用で現地入りは出来ず案内をしてもらえなかったが、主幹の堤氏より詳細に説明して頂いた。
「埋木舎」は創建1759年(宝暦9年)頃とみられている。彦根城佐和口御門に近い中堀に面した質素な屋敷であった。「井伊直弼」が、13代彦根藩主となるまでの不遇の時期、1831年(天保2年)以後15年を過ごした屋敷として有名である。
本来は「尾末町御屋敷」あるいは「北の御屋敷」の名で呼ばれていたらしい。
発掘調査により、建物は建て替えにより6期の変遷が確認されており、現在は国指定特別史跡となっている。
彦根藩井伊家では、藩主の子であっても世子(城主になる子)以外は、他家に養子に行くか、家臣の養子となってその家を継ぐか、あるいは寺に入るのが決まりとされていた。行き先が決まらない間は、父が藩主の間は下屋敷(槻御殿)で一緒に暮らすが、兄が藩主になると城下の「控え屋敷」に入って宛行扶持で暮らすこととされていた。「尾末町御屋敷」(北の御屋敷)は控え屋敷のひとつであったのだ。控え屋敷であるため、下屋敷のように立派な建物でもなく、素材も一段下で、大名の家族の住居としてはきわめて質素であり、中級藩士の屋敷とほぼ同等であったと言われている。
彦根藩主の14男として生まれた井伊直弼は5歳のとき母を失い、17歳のとき隠居していた父井伊直中(11代藩主)が亡くなり、弟の井伊直恭とともにこの控え屋敷に入った。300俵の捨扶持の部屋住みの身分であった。3年余りして直弼20歳のとき養子縁組の話があるというので弟とともに江戸に出向くが、決まったのは弟の縁組(直恭は日向国延岡藩内藤家7万石の養子となる)だけで、直弼には期待むなしく養子の話がなかったのである。それからの直弼はしばらく江戸にいたが彦根に帰り、次のような歌を詠んでいる。
「世の中を よそに見つつも 埋木の 埋もれておらむ 心なき身は」
自らを花の咲くこともない(世に出ることもない)埋もれ木と同じだとして、逆境に安住の地を求めてその居宅を「埋木舎」と名づけ、それでも自分には「為すべき策」があると精進したのである。
埋木舎には柳が植えられていた。直弼は柳をことのほか愛し、号にも「柳王舎」を使うことが多かったと言う。
部屋住み時代の直弼は、のちに腹心となる長野主膳に国学を、更に曹洞禅、儒学、洋学を学んだ。また、書き絵、和歌のほか、剣術、居合、槍術、弓術、砲術、柔術などの武術、乗馬、茶の湯など多数の趣味に没頭し、何でも精通していた。「余は一日4時間眠れば足りる」として、文武両道の修練に励んでいた。
昭和54年10月設置、彦根市の説明板を記して見た。
大老、彦根藩第13代藩主、井伊直弼公は、文化12年(1815)に第11代藩士、父直中公の14男として生まれた。5歳のとき生母を、17歳のとき父を失い、藩の掟によって僅か300俵の捨扶持を給せられてここ(埋木舎)に移った。文化3年(1846)、第12代藩士である兄直亮の嗣子になるまでの青年時代(10代〜32歳)をこの埋木舎で過した。この間に刻苦勉励して学内武芸に打ち込んだが、将来の藩主たるためのものでなく、ただ与えられた窮庶子の地位において安住する精神を求めたに他ならなかった。
嘉永3年(1850)藩主、更には安政5年(1858)4月に幕府の大老職になるや翌々の6月には幕府の祖法を排して日米通商条約調印に続いて、英、仏、露、蘭の4ヶ国と開港条約を結んで困難を救った英断は、この埋木舎における生活のたまものといえよう。
と記されている。この埋木舎がいかに大事な「青春時代」だったかがうかがえた。
埋木舎は1871年(明治4年)、払い下げによって大久保氏の所有になった。1984年(昭和59年)豪雪があって倒壊したため全面的に解体修理したと言われている。現舎主の大久保治男氏は大久保彦左衛門のいとこにあたる、大久保忠正氏の末裔で15代目である。
彦根城見学の折にはこの埋木舎も是非見学してほしい。
彦根城について
井伊家第18代当主の井伊直岳氏が彦根城博物館長を務めている。歴代で言うと42代目と話していた。とても背が高く好青年で、お忙しい毎日を送っているようであった。
彦根城概要
江戸時代に滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、井伊氏の拠点として置かれた平山城である。山は「金亀山」との異名を持つため、城は「金亀城」とも言われている。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
明治初期の廃城令に伴う破却を免れ国宝の天守、附櫓及び多聞櫓のほか、安土桃山時代から江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少で、私は他城では見たことがなかった。
資料によれば、大隈重信の上奏により、1878年(明治11年)に建物が保存されることになったと記されていた。
安土桃山時代から江戸時代に建造された、木造の天守が現存12天守あり、その天守の一城で、その内の国宝四城の一つでもある。
1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストにも記載されているようだが、世界遺産登録はなかなか厳しいようである。滋賀県下では唯一、城郭建築が保存されている。
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。佐和山城は石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの…」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い湖岸に近い磯山に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の戦いでの戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去したのである。その後直継が家督を継いだが、幼少であったため、直政の遺臣である家老の木俣守勝が徳川家康と相談して彼の遺志を継ぎ、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始したと言われている。
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7ヶ国に大名が手伝いを命じられる天下普請であったと言われている。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城している。1616年(天和2年)彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、1622年(天和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成したのである。その後、井伊氏は加増を重ね、1633年(寛永10年)には徳川幕府下の譜代大名の中では最高となる35万石を得るに至ったと言われている。
時代は移り、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものが次第に軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が、権力、権勢の象徴物へ変じていき、徳川幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以外倉庫等として徳川時代の大半は経過したと言うことである。
その後、近現代、天守等7棟が1951年(昭和26年)に重要文化財に指定され、その内の天守、附櫓、多聞櫓が1952年(昭和27年)に「国宝」に指定された。
姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1951年(昭和26年)6月9日に国の特別史跡に指定された。これは姫路城の指定よりも5年も早かったと記されている。
1987年(昭和62年)、彦根市市制50周年として御殿が復元され、「彦根城博物館」として藩政時代の調度品・武具など展示されており、多くの観光客が毎年訪れます。
世界に類のない日本の城を継承し、維持保存していくことが、我々業界人の任務かも知れないと思う。日本特有の城郭は観光立国日本のシンボルではないかと思う。100年後、200年後、この日本の財産、日本にしかない、天守城郭を維持保存することが、木造神社、仏閣と共に日本の伝統文化を維持することにつながり、「江戸城」再建も大きな意義が期待される。
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