東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.129

「三菱が夢見た美術館展」拝見
青木行雄

 岩崎家・三菱ゆかりの名品を一挙に公開した美術館展を見るために丸の内に行って来た。
 幕末、土佐藩の海運業を任された岩崎弥太郎は、明治維新後に三菱を興して、次々に様々な事業を展開して行った。以来、岩崎家と三菱は文化・芸術にも深く係わり、明治20年代には東京・丸の内に美術館をつくる構想も描いていたと言う。その「丸の内美術館」が一世紀以上を経って実現したと言うから、岩崎家三菱ゆかりの人達、事情知る人達にとっても大変うれしい出来事には間違いないと思う。
 東京駅丸の内側には、三菱系のビルが多くあって、以前、現三菱一号館美術館風のビルが何軒もあった。しかし、時代の流れに従いほとんどが高層ビルに変ってしまった。
 この三菱一号館美術館のみ昔の風格を残し、平成22年4月美術館としてオープンしたのである。
※ 昔のままの赤レンガで再現した三菱一号館。高層ビルの出来る前はこんな赤レンガビルが、丸の内側で多く見られた。この中に「美術館」と「レストラン」がある。

 その開館記念展第2弾として、岩崎家が設立した「静嘉堂」、「東洋文庫」の名品や、これまで公開される機会の少なかった三菱系企業のコレクションを一挙に公開された。
 後程少々記したと思うが見事な名品があって言葉では表現出来ないものが沢山ある。
 まず、岩崎家が設立した「静嘉堂」と言う公益財団法人がどんな法人か資料より説明しておこう。

 この「静嘉堂」は明治20年代に三菱第2代社長、岩崎彌之助により創設された。
 収蔵品や書物等を紹介する。
 和漢の古典籍、国書8万冊、漢籍12万冊と古美術品6,500件の内に国宝7点、重要文化財83点、重要美術品79点等収蔵品は大変なものだが、私立の図書館、美術館としては、東洋文化の一大宝庫として内外に高く評価されていると言う。
 これらのコレクションは、彌之助氏が、明治の西欧文化偏重の風潮の中で、とかく軽視されがちであった東洋固有の文化財の散亡・流出を防ごうと、明治20年頃から巨資を惜しまず本格的な収集活動を始めたものに基づき、その後、嗣子の第4代社長・岩崎小彌太により更に拡充されたと言う。

※ この写真は「静嘉堂」の茶道具コレクションのひとつで、世界に3碗だけ現存すると言う貴重な碗で国宝でもある「曜変天目(稲葉天目)と言う名器である。中国宋時代の作で(12〜13世紀)高7.2cm、口径12.2cm、高台径3.8cmである。
 もちろん会場では撮影は出来ない。パンフから載せて頂いたが、見れば見る程、不思議な光沢をはなち、ジーと見ていても退屈を感じない名器である。この名碗を見るには、今は「静嘉堂」に行くしかないが、常時展示しているかはわからない。何回見ても飽きない名品だ。

 その収集は、刀剣・茶道具に始まり、日本・中国の絵画、墨跡、陶磁器、漆器、文房具、木彫等広範囲に渡り、その中でも著名なものとしては、※曜変天目(国宝)(この国宝については私見を書き添える)、俵屋宗達筆『源氏物語関屋澪標図屏風』(国宝)、和漢朗詠抄(国宝)等がある。図書では、重要文化財18点に及ぶ中国宋時代の版本も世に名高いと記されていた。

 昭和15年(1940)に財団法人化された「静嘉堂」は、各位のご支援を得て図書館・美術館として充実した活動を展開してきたと言うが昨年末、新しい公益法人制度下に於いて改組が認定され、この結果、「財団法人静嘉堂」は「公益財団法人静嘉堂」となった。その新しい事業活動の一環として「静嘉堂」が「東洋文庫」共々このコレクション展の特別協力者となり、選りすぐりの優品24件が出品することになった。この中には、門外不出としてきた国宝の名碗「曜変天目」を含む。この協力が、日本・東洋の文化の普及と認識の深化、ひいては、本展の成功に寄与することを心から念願すると、「公益財団法人静嘉堂」の挨拶である。
 この展示品の中に財団法人「東洋文庫」もあるので紹介する。
 三菱第3代当主の岩崎久彌氏が大正13年(1924)に設立した研究図書館で、東洋学の分野では世界の5指に数えられていると言う。三菱グループには「三綱領」と言うものがあるが、その第一番目に「所期奉公」と言うのがある。これは、常に社会への奉仕を念頭に置こうという事で、久彌氏が、「六義園」、「清澄公園」を東京都に寄付したり、岩手の「小岩井農場」で大規模な植林事業を行ったり、そして、自ら収集した図書を中心に「東洋文庫」を設立したのも、この社会への奉仕の精神から出発しているものだと言われる。

 久彌氏は「東洋文庫」設立に先立つ大正6年(1917)に、元ロンドン・タイムズの北京駐在員であった「モリソン氏」の書籍・史料を一括購入した。このモリソン文庫は、購入から東洋文庫の設立までの間、三菱14号館に「モリソン文庫仮事務所」として保管されていた。又、今回展覧会が開催された三菱一号館は、久彌氏が三菱合資会社の初代社長に就任した年に完成したと言う。従って、今回の展示は、その久彌氏が開設した三菱一号館の復元ビル内の美術館に、14号館に保存されていた「モリソン文庫」の書籍が謂わば里帰りする事が実現したと言う訳である。
 こんな説明となっている。

※ 三菱一号館「レストラン」の内部は木造の仕上げ。明治時代の木造内装に天井も柱も見事であった。このレストランは大変いつも混んでいて、時間をずらして行くといい。このレストランも展示品の一つと思う。

 明治23年(1890)、第2代社長岩崎彌之助は丸の内の土地を次々に取得して、お雇い外国人の英国人建築家ジョサイヤ・コンドルに煉瓦造りの事務所を設計させ、明治27年(1894)、三菱一号館が完成した。同じ頃、三菱には丸の内に美術館や劇場をつくる計画があり、コンドルは「丸の内美術館計画」と銘打った図面が残されていたと言う。明治期の美術館設立計画は実現しなかったが、それから一世紀後、丸の内に「三菱一号館美術館」がこの程誕生したのである。
 往時に三菱が描いた夢の実現の意味が込められている。コンドルが三菱や岩崎家のために描いた建築図面を皮切りに、岩崎家が設立した「静嘉堂」及び「東洋文庫」が所蔵する、国宝、重文を含む古美術及び古典籍、そして三菱系企業の個人が所蔵するルノワール、モネ、山本芳翠、黒田清輝らによる作品が展示室を飾った。また、三菱から発した日本郵船、キリン麦酒が宣伝のために作成した、近代化してゆく日本の姿を次々に映し出すポスターが展覧会会場に華を添えている。
 実に見ごたえのある作品ばかりであった。一つ一つ取り上げたい作品は沢山あった。

 これから次々と第3弾、4弾と何万とある作品を次々に展示して行くと思うが、まだまだ見ておきたい美術品は沢山あると思う。

 近くには安いレストランも沢山あって、丸の内は今や庶民の憩いの場所にもなって、半日や一日、時間をつぶすにも事かかない。丸の内には食事所が500軒もあって、東京駅に近く、皇居も近い。見る、聞く、探る、買う、食う、歩く、乗る。そんな街に変貌して来たのである。

平成22年10月31日 記


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