昨今の歴女ブームのお陰で,陽が当った妖刀がご猿。これを「七支刀」と言う。
百済の王(肖古王)からの貢物と云われるが,果たしてその実体は如何なる事か?。
七支刀は六本の枝を持つ奇妙なスタイルの鉄剣であり,奈良県天理市石上神宮のご神宝で二枚の楯と共に神庫に伝世した前代の貴重な遺物であり,鍛鉄製で剣の左右に三つの枝刃を段違状態に造り出し特異な形体を呈しており下から約三分の一の所で折れて,全体に鉄錆びが覆っていたのを,明治初年に同神社の大宮司職の管政友が見つけ自ら錆を落とすと金象嵌が現われてビックリ仰天。
剣身には六十余字の象嵌銘が有り,その大略は以下の如しでご猿る。
表 秦和四年□月一六日丙午 正陽造百練鉄七支刀可僻百兵宣倶供候王
□□□□作。
裏 先世以来未有此刀百済王世 子奇生聖音故為倭王旨造伝示世。
この読みは「泰和四年□月十六日丙午の正陽に百錬の鉄で七支刀を造る。百兵を僻くべく宜しく倶に候王に供すべし□□□□作」「先の世以来まだこんな刀はない百済王の世子の奇生聖音が倭王への為に造る,後世に伝示せよ」。
泰和四年は東晋の(太和四年)に当り AD369年となるので日本書紀の神功皇后52年(AD・252)の記述と合致する,併しそうすると日本の年号が117年も大幅に修正される事になるが,併しその方がより一層史実に近くなると思うのでご猿。
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名前の由来は,刀身の両側に三本づつ枝が交互に出る事により名付けられた。
長さ2尺1寸6分5厘(65.6cm)。正式名称は「ナナサヤノタチ」と云う。国宝。
尚,二枚の鉄楯は「日の御楯」と申し,共にご神宝であり,重要文化財でご猿。
又,神功皇后は仲哀天皇の后にて天皇がご病身のため摂政を長く務められた。
「日本書紀」に記述される「三韓征伐」は神功皇后の主導にての外征であり,この戦果の結果により「七支刀」が百済より日本に到来したと考えられる。
では,その前後の情況を日本書紀の記述をベースに検討をして見ましよう。
「神功皇后は摂政46年の三月に斯摩宿禰を卓淳国に遣わした。卓殉の国王は一昨年,三人の百済人が来て,百済王は東方に日本と云う国が有ると聞いて,我らを派遣されました。故に道を探しながらこの国まで来ました,道を教えてこの国を通らせて下さい。さすれば百済王は深く喜ぶでしよう」と云いました。併し,卓淳国王の末錦旱岐は,「東方に国が有る事は聞いているが,まだ通商が無いので道は知らない,海を隔て遠く波は荒い,大船無しでは無理だろう」と告げた。百済人は「ならば一旦帰国して大船を用意して出直します」と帰って行った。その後,斯摩宿禰は家来の爾波移を百済に派遣して,百済王の好意を労つた。肖古王は深く喜び,五色の綾絹や角製の弓矢,鉄挺(インゴット)40枚を贈物とした。更に宝蔵を開き色々な珍品を見せ,「百済にはこの様に多くの宝が有りますので,貴国に奉呈したいと思っていました。併し今迄は行く道を知りませんでしたが,今ここに使いが来られたので,貢献の取次ぎをお願いします」と申されました。爾波移は卓淳まで戻り,斯摩宿禰に報告をして一行は日本に帰国しました。
47年の夏,百済王が朝貢した。同時に新羅も貢物を携えた使者が朝参した。皇太后(神功皇后)と皇太子の誉田別尊(後の応神天皇)は大変に喜ばれましたが,両国の貢物を見てみたら,新羅の貢物は珍しい物が多かったが,百済の貢物は貧弱だったので,「どういう訳か」と尋ねたら,百済の使者は「私共は道に迷い新羅の沙比に着いてしまい,そこで新羅人に捕まり牢屋に入れられて殺されるところでしたのて,天に向い呪詛をしましたら,新羅人は呪いを恐れ殺すのは止めましたが,私共の貢物を没収し自分達の贈物に仕立て,新羅の粗末な物を私共の貢物としました。そして「もし云う通りにしなければ,帰途に殺す!と脅かされましたので,,恐ろしくなりその言葉に従つたのです」,と申しました。皇太后と誉田別尊は新羅の使者を大いに譴責して,天神に祈念し「誰を百済に派遣し,この真実を調べるべきか」と問うと,天神から直に「竹内宿禰にせよ!,そして千熊長彦を使者にすれば望み通りになるだろう」,との天啓が届きました。そこで千熊長彦を新羅に派遣し,百済の貢物を横取りした事を責め立てました。
四十九年の春三月,荒田別と鹿我別を将軍に任じ,百済人の久氏等を交えて,軍備を整え海を渡り卓淳まで行き,新羅を攻撃する寸前になつて,或る人が「兵数が少なくては新羅を破る事は出来ない,沙白と蓋盧を百済の都に登らせ応援を乞えば」と云った。すると百済王は直ちに木羅斤資と沙沙奴跨に命じて精兵を率いて卓淳に集結をさせ,強力な新羅軍を撃破した。
これによって,比自保,・南加羅・ 国・安羅・多羅・卓淳・加羅・の七国を平定した。その後,西に転戦して古渓津と,南の忱彌多礼(済州島)も屠り百済に割譲した。その他,比利・癖中・布彌支・半古,の四村が戦わずに降伏した。これにより百済王とその息子,荒田別,木羅斤資,等が,意流村で会見をして喜び合った。 帰途,百済王と千熊長彦は辟支山に登り盟約をした,肖古王は古沙山の大岩に坐り,「我国は,常に自国を西蕃と卑称して貴国に必ず春秋には朝貢をします」と誓い,千熊長彦を都に伴い礼遇をして日本に送った。
その後,多沙城を往還の駅として給したりして友好は続き,朝貢も続いた。52年の秋九月,一日が丁卯の月の丙子の日(10日)久氏等が千熊長彦に従って参朝し,七枝の刀一口,七子の鏡一面,その他,種〃の宝物を献じて報告した。「私共の国の西に川があります。源は谷那の鉄山から出ています。その遠い事は七日間かかっても到着しない程ですが,この山鉄を取って永遠に奉ります」と言い,孫の枕流王には「この国が海の西の国を割譲してくれたので我国は成り立っているのだから大切にする様に〜」と言って神武天皇55年に崩御された。
以上が「石上神宮」に現存する,「七支刀」(ななつさやのたち)の伝承です。それでは「石上神宮」とは,どの様な神社であらせられますか,と申しますと。
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住 所。奈良県天理市布留町384番。別名は石上振神宮,他タント(10程)有る。
主祭神。布都御魂大神。他に六柱の神が合祠されている。摂社も四社を数える。
御神体。布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)。この剣もかなりの物語が有ります。
創 建。大変古く崇神天皇7年(BC91),都は大和の磯城(瑞 宮)で善政と云う。
「日本書紀」に記載されている神社は「伊勢神宮」と「石上神宮」だけ
である。
社 格。式内社(名神大)。官幣大社。二十二社。別表神社。貞観九年に正一位。
歴 史。古代の軍事氏族である,物部氏の神社で大和政権の武器庫でもあつた。
中世以降は興福寺と争い,戦国時代は信長に負けて土地も没収された。
併し氏子の信仰は衰えず,明治16年に再び神宮号の名乗りを許された。
又,石上神宮は死者を蘇生させるという十種神宝の呪術でも有名である。
尚,「七支刀」は五月十七日より平日の廿日間に限り公開されます。
但し,往復ハガキによる申し込み抽選との事。TEL 0742(25)2010。
今回は「郷土刀」のパートIIとして同業者の出身の多い,紀之国(和歌山)の
鍛冶を紹介致す予定でしたが,「七支刀」のリクエストが入リましたので,急遽,
題名を変更をさせて頂きました。次回は「紀州刀」と致しますので悪しからず。
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