沖の暗いのに白帆が見える、あれは「紀之国」ミカン船〜、で有名な紀伊国の産も、我が業界にはタント居られますので、今回は敬意を表して「紀州の巻」で御座居ます。
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實
傳
紀
ノ
国
屋
文
左
衛
門 |
(載所筆漫華萍)さやのしざきわの文紀 |
脇差の鞘ですが、中身の形態、刀銘、長さ、幅、厚さ、造り込み、塗色、等は不明。
紀ノ国屋文左衛門には、様々な意見があり信憑性に欠けますので、又、後日申し上げます。
紀伊国は我国最大の半島である紀伊半島に位置しており、「キイノクニ」と言われるが、その昔は「キノクニ」と呼ばれ、正に木材王国であった。これは雨が多く気候が温暖で木材の生育に適した土地であった為、「日本風土記」も「紀伊=乞奴苦芸」としている。
元は「木国」と書いていたが、「和訓栞」には「きい、紀伊は元来は木国と書きたるを、和銅年間(687〜696)に好字を撰び、この二字を用ゐられて書也。伊は紀の響きなり」とあって、国名の変遷した経緯が明らかでご猿。
又、五街道の南街道はこの国から始まり、「和名抄」は都からの行程を上がりで四日、下りで二日としている。「延喜式」では紀伊は、上・中・下の上国に列せられている。
国内は山ばかりで、和泉、長峰、白馬、果無、大塔山脈、などの山々の間を縫って、紀ノ川、有田川、日高川、日置川、古座川、熊野川、北上川がそれぞれ海に注いでおり、これ等の河川が注いでいる海岸線は非常に長く、紀州の、東、西、北の三方が海である。そして、それぞれの河川の流域に独特な文化や産業が生まれている。
現在、江戸で紀州と言って第一にピ−ンと来るのは、冒頭の「文左衛門」のミカンと「熊野の林業」、「太地の捕鯨」で、この3つが飛抜けて有名でご猿るが、他に、梅干し、高野豆腐、黒江漆器、備長炭、等も全国的に知られている。その昔は武具の「天狗矢根」「神川弓」も諸国の名物を列記した「毛吹草」の中に記載をされている。
※「天狗矢根」、紀州熊野に室町末期に、「天狗」とだけ銘を切る刀工がいた。普通は、これを「アマイヌ」と呼ぶが、当地での古老達は古くから「天狗鍛冶」と呼んでいる。新宮の神倉山にある神倉神社が山伏の修業場になっていて、刀などの武具を造っていた。
紀伊国の鍛冶の起源は古く、6?7世紀頃に遡り、名草郡周辺に帰化した集団の中に韓鍛冶部等の技能者の集団が含まれていたと考えられている。これは「続日本書紀」の養老六年(722)三月の項に「伊賀国金作部東人、〜紀伊国韓鍛冶杭田 鎧作名床等、合計七十一戸、惟三姓渉二雑工一、而尋二要本源一、元来不預二雑戸之色一、因除二其号一 並従二公戸一」とあり造籍の際に雑戸に間違えられていたのを、改めて公戸に編入した。その中に紀伊国の韓鍛冶の杭田と鎧作りの名床が居たとの記載であって、これを見ても八世紀の初頭には既に紀伊国で韓鍛冶が鍛錬していたことは明らかである。
その後に出来た「延喜式」(901)には紀伊国の鍛冶屋は13戸と出ているので、これは韓鍛冶と倭鍛冶のどちらか、又は両方を合わせた数かは定かでは無いが、鍛冶業として13軒が集団で居た事は確かで、後の養老年中よりその数は増えて行っていた筈でご猿。
但し、武家が台頭する平安末期になっても紀伊国には名の知れた刀鍛冶は見られず、銘鑑には応和(961)頃に奥州舞草(岩手一関)より、移住をして来た光長がいる限りにて候。普通はこの時期にこの様な事は他の地域では考え難い、その原因は紀伊には他には無い高野山を始めとして、熊野本宮、新宮、那智三山、青岸渡寺、日前、国懸神社、根来寺、粉河寺、等の神仏共同の強力な一大宗教バリァーが構築されていた為と思われる。
その為に在郷の武士団では隅田党や湯浅党も居たが勢力も脆弱でとても対抗できず、その傘下に組み込まれ、鍛冶も刀よりも社寺仏閣の修理や日常の雑鍛冶になっていた。
併し、南北朝の動乱が天下を揺るがすに至り、紀伊も一方の震源地に近い為、武器等の需要も旺盛になり、隣の大和から手掻の一門がムロ郡の入鹿荘内に来て鍛刀を始める。これが現在、珍品とされて人気の出て来た、紀州の「入鹿鍛冶」のスタートにてご猿。
元来、入鹿と云うのは土地の名で、京都の公家が授り入鹿頼兼と名乗ったとの事です。太地のクジラの隣と言っても、決してドルフィン→イルカ(海豚)→入鹿ではござんせん。入鹿鍛冶の来住は南北朝末期の明徳頃の様で、大和の手掻包貞が初代との事でござんす。
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入鹿八幡宮 |
入鹿鍛冶淬刃の井戸 |
小脇差 銘 紀州入鹿実綱 刃長33.3cm(一尺一寸二厘)反り15mm(五厘)。
平造り 三つ棟 身幅、重ね尋常な寸延びの姿、柾目がよく詰み 地沸が付く。鑢目勝手下がり。柾の詰んだ肌に細く黒い変わり鉄が混じった「入鹿肌」が顕著に現れる。天正頃の作。
刀 刀銘 実正 永禄九年(1566)二月日 刃長70.4cm(二尺三寸二分)反0.83cm(二分三厘)。鎬造 織棟、身幅広い打刀、反り浅く大切先となる大段平の姿、地鉄は板目に杢が混ざり肌立ち、地沸が良く付き、太い地景が絡み松川肌がハバキ元に現れている。刃文は小沸出来の大のたれ。茎 生ぶ。先上がり栗尻、表裏に丸留の刀樋を掻く。鑢目 切に近い勝手下がり。目釘孔は一ツ。
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粉河寺大門 この大門の右奥が鍛冶場跡 |
室町期も永禄以降(1558)となると入鹿肌という特徴が無くなつて、他の鍛冶と同様な作柄となる、この刀は珍しく年期が入り資料的価値も高く「県文」に指定されている。
尚、文安(1444〜47)頃に入鹿から分れて近隣の粉河寺で鍛刀した一派を粉河鍛冶と云う。この粉河鍛冶の内から名人・上手と云われる簀戸国次が現れる。簀戸とは銘の国の中の字の形ちが庭の入り口などに設ける簀戸の形によく似ている事から来た呼称でご猿。
粉河寺は陀落山施音寺と申し粉河観音宗の総本山であつたが、織田信長の遺志を継いだ豊臣秀吉と、近隣の新義真言の本山であつた根来寺が敵対した為に全て焼き払われた。
時に天正13年(1585)にて、この時に熊野・紀州一円の反対する寺も武士も全て焼亡す。「粉河寺」は宝亀七年(770)大伴孔子古の創建。その時の事が見事な絵巻で現存する。国宝。
短刀 銘 国次 刃長18.8cm(六寸二分)反り0.27cm(九厘)。
平造 三つ棟 身幅狭く重ね厚く 内反り付き 地鉄 小杢目がよく詰み地景入り 青白く冴える。初代国次の延徳頃の作で、如何にも簀戸といつた標準的な出来であるが、品の良い短刀である。
刀 銘 国次 刃長61.25cm(二尺二分)反り1.87cm(六分二厘)。
鎬造 庵棟 三つ棟 身幅狭く重ね薄めで小切先で小振りな中反りの高い打刀 地鉄 黒く入鹿肌 刃文 匂口の締る細直刃 焼出しに映りあり 帽子 直で先小丸で浅く返る 茎 丸峰 鑢 勝手下り。
初代国次が全盛期の作で、如何にも簀戸らしい優れた出来である。文明(1468)でも初期の作で、この辺から作風も綺麗な良く詰んだ地鉄に細直刃を焼き安定して来ている。
太刀 銘 本願粉河寺密蔵院惣義 紀州伊都郡官省符神通寺大明神御剣
永正十四年丁丑五月吉日 国次作。(三代)、国次中では初代と三代が特に上手。
刃長69.2cm(二尺二寸八分四厘)反り3.08cm(一寸二厘)。
丹生官省符神社に奉納された太刀で、腰反りが高く、切先は詰まって小切先で鎬幅は狭いが、鎬高の確りした造込み 地鉄は小板目が良く詰み地沸が一面に付き、所により小杢が混じる。映りが有り幽かに黒い筋が見える。刃文は直刃に小のたれが交じり小足が入り匂口は締まる。帽子 直で小丸に浅く返る。茎は生ぶ 棟は丸棟で刃上がり栗尻 鑢目は切りから勝手下りに。
短刀 銘 国次(簀戸)長さ22.5cm(7寸五分) 鑑定書 特別貴重。価格480,000円。
平造り 庵棟尋常。鍛え 杢目交じりの板目肌 よく詰み地沸え付く。刃文 細直ぐ刃に匂付く。帽子 小丸に返る 茎 生ぶ 先栗尻 鑢目 桧垣 銅に金着せの二重ハバキ 時代短刀拵と白鞘付。
紀伊国入鹿一門の誠に珍しい簀戸国次の在銘の短刀です。国の中を米の様に異風に切るので有名な一派です。普段は滅多に見ません、目効きばかりの鑑定会に偶に出ても先ず当りません。「天狗の鼻折」の部類と言って宜敷しいと思います。(下の天狗とは別)この短刀は最近ある刀屋の売品として売りに出た物ですが、かなりお値打物と思います。
ここに簀戸国次の銘を時代別に載せて置きます。
尚、以下の「天狗鍛冶」も入鹿鍛冶とかなり関係が深い、肌合いの鍛冶と云われています。
京都鞍馬住吉久は永正の頃、紀州熊野に移住し「天狗吉久」と切った矢の根の上手です。新宮市の河畔にある熊野速玉神社に「天狗吉久」との在銘の斧が奉納されております。尤も、新宮は熊野三山の入口にあたり、熊野水軍の本拠地でもあったので、天狗鍛冶はそれらを見ると山や海の双方の需要に応じてそれなりに繁栄していたと思われます。
但し、現存する「天狗○○」の在銘物は殆どが新刀期の物で数打物が多く注意を要す。
これは「天狗」の名の付いた新刀ですが、末備前風に纏めてあり珍しく良い方です。
※天狗喜兵衛 紀州・和歌山の刀工。城下の西鍛冶屋町に住み、刀や具足を作り藩の御用を務めていた。常に腕自慢で世人から天狗と云われていたので、ついに自ら天狗を姓にした。併し仕事には細心で焼刃渡しの水は海草郡の法招寺の滝から汲んで来ていた。和歌山藩がイギリスから購入したコルマントン号の故障を直し、その褒賞として千両を要求し受領したのには流石、天狗だと評判になった。廃刀令後は「火打金」を作っていた。
江戸末期の天狗鍛冶には甲冑の制作に名を残している者もいて、なかなか上手である。
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兜 銘 南紀住 天狗清房 |
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板目紋大小鐔 銘 算経(花押) |
※これにて紀州関係の古刀鍛冶はENDと致し、来月は新刀と云う事で…。 |