東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(52)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 去る3月20日、東海道ネットワークの会の例会があり、テーマは「旧東海道品川宿周辺を訪ねる」でありました。
 品川は、私が日本橋を振り出しに東海道中を始めた時通って以来16年振りです。16年という短い間に、周辺は超高層オフィス街が出現し、駅には新幹線が停車するという大きな変貌を遂げましたが、旧東海道の八ツ山橋から涙橋まで約1里の間は、道路を6.3米(三間半)と昔の巾を確保した上、両側に歩道を整備して拡巾、タイルで色別けし、街起しを進め、希望すればボランディアがガイドも付ける。というサービスによって、私達は旧東海道時代にタイムスリップして旅人の気分に浸ることが出来ます。八ツ山橋は日本初の鉄道陸橋として明治5年に架けられ、東海道と東海道線は立体交差となりました。昭和29年製作の映画で、ゴジラが海からここで初めて上陸しました。問答河岸では16年前も立ち止まって、沢庵和尚と将軍家光の問答を書き留めましたが、ボランティア嬢の説明ですぐ下が海岸であったことを知りました。
 通称土蔵相模と云われた妓楼の壁が海鼠壁(なまこかべ)で再現されています。高杉晋作、伊藤俊輔(博文)等長州の尊皇攘夷派が、この妓楼に集まり、密議を重ねたり、又桜田門外で井伊直弼を襲撃した水戸浪士たちも、ここに集結し、最後の宴を開いています。
 品川宿は大名屋敷やお寺が軒を連ね、江戸の玄関口として大変賑っておりました。
 『品川の客にんべんのあるとなし』、これは、寺の坊主も侍も来る、という賑い振りをうたった川柳です。江戸4宿にはそれぞれ妓楼があって繁盛し、そのランクは、品川、内藤新宿、千住、板橋の順でありました。江戸幕府は、品川宿に800人の飯盛女を置く許可を与えましたが、規定を超えて1,600人もいたこともありました。規定を超えて女性を置く場合、男として登録しました。今でも芸者の源氏名を、留吉とか勝太郎と名付けるのはその名残りと云われています。今から20年前位に、私が住宅の営業をしていた頃、品川でお顧客さんから家の建替えのご用命を賜りました。旧屋を解体撤去する為に、手続に必要な建物の謄本をとった処、建物の種類の項に、芸妓置屋と記してありました。江戸時代、宿場として賑わっていた頃の名残がこんな処で偲ばれました。
 旧東海道から北馬場通りを北上、新馬場駅を左に見て、第一京浜国道を横断すると、品川神社の鳥居が見えます。53段の石段を登ると品川富士の頂上になり、奥が平安時代創建の天比理乃ミ命が祀られています。裏に板垣退助の墓もあり、佐藤栄作書による「板垣死すとも自由は死せず」の碑があります。高台からは美しい海が見えたことでしょうが、今は京急の高架ガードが視界を塞ぎ、その向うも埋め立てられて、見えるのは明治以降にできた街並みばかり。江戸には800以上の富士講があり、品川にも6つありました。ここ丸嘉講は現在でも活動している希少な存在です。
 目黒川の畔りには荏原神社があります。奈良時代(709)の創建です。平安中期(1062)には、源頼義、義家親子が、奥州討伐の際に戦勝祈願をしました。品川宿の八ツ山橋から、鈴ヶ森刑場跡までわずか1里の街道に奈良時代から現代までの歴史が詰っています。
 しかし、今の品川宿の目玉はなんといっても坂本龍馬であります。NHK大河ドラマの主人公が活躍する舞台は、必ず全国から多くの多くの人が訪れ賑います。立会川沿いに、土佐藩山内家の下屋敷(16,800坪)と抱屋敷(869坪)があり、抱屋敷に嘉永6(1853)年砲台が築造され、江戸で剣術修業中の坂本龍馬は砲台要員として配置され、ここで黒船を見たことが、世界を見据えた独自の思想をもつようになり、その後世界に向って大きく羽搏きます。北浜川児童公園に強化プラスチック製の像が立っています。今日の後半、熱心に御案内して下さった、品川龍馬会の方が高知を訪れ、龍馬生家跡、今はホテル南水にあった像を懇願して寄贈してもらった由。龍馬が父八平宛送った手紙は「尊父様御机下異国船処々に来り候へば軍も近き内と奉存候其節は異国の首を打ち取り帰国可仕候かしこ」と記されていました。
 江戸幕府は龍馬が警護していた御殿山下台場から、品川埠頭、レインボーブリッジ下のお台場海浜公園まで7ヶ所の台場を設置し、その先は有明、豊洲に到るまで4ヶ所の築造計画がありました。実際に竣工したのは5ヶ所で、あとは途中中止2ヶ所、4ヶ所は未着工のままでありました。しかし、完成した砲台から弾丸が発射されることは一度もなかったのは大変幸甚でありました。黒船が来てから短期間でこれだけの防備の体制を整えたのは、混乱期の江戸幕府にしては素早い措置であったといえるのではないでしょうか。
 日本は何とか列強の侵略から免れます。
 その後、薩長連合、大政奉還、官軍による倒幕活動で江戸城陥落の危機は、西郷と勝の会談で救われ無血開城となり、わが国は近代国家へと脱皮します。この大きな渦は、シナリオを描いた一人として、龍馬なくしては起り得なかった奇蹟と云えるのではないでしょうか。

 



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