東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(56)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 今から410年前の9月15日、関ヶ原の戦いが勃発しました。私は14年前、中山道を歩いていて、偶然9月15日に関ヶ原を通りかかりました。
 今回は、関ヶ原を歩いた体験を回想しながら、天下分け目の戦いに思いを馳せ歴史探訪します。日本橋を平成7年6月17日に出立、関ヶ原に着いたのは、中山道を歩き始めてから1年以上が過ぎていました。初日は板橋、二日目蕨へとゆっくり歩き、以後大宮、桶川、熊谷、新町、高崎、安中へと進み、碓氷峠を越えて軽井沢、小田井、望月、芦田、和田、下諏訪へと、16日目に洗馬に辿り着きました。本山から馬籠までを木曽十一宿と云いますが、この間は名所、名勝が続き、11月19日、須原宿の友人宅に泊めてもらい、翌日、大桑駅でその年は終了しました。
 翌年は雪融けを待って、3月16日大桑から再開、三留野宿へ、妻籠宿で一泊し、3月17日落合宿、4月6日、一泊二日で御崇宿へ、途中出会った岐阜市在住のG氏と懇意になり案内もしてもらいました。5月4日御崇宿より犬山のホテルに一泊、5月5日加納宿(今の岐阜)まで歩きました。6月1日、加納宿より大垣まで歩き、下呂温泉に一泊、翌日の夕刻関ヶ原に着きました。夏の間は暫く中断し、9月15日再開しましたら、駅前は天下分け目のイベント開催で賑っておりました。テントが二張り出ていて、駅から吐き出される人達に呼びかけています。「1996年秋さわやかウォーキング」というテーマで、パンフレットをもらって見ますと、十三粁の戦跡コースを隈なく廻り、3時間半かけて戻って来ると飲み物のサービスが受けられます。
 1560年、桶狭間の戦で、織田信長が僅か3000の軍で5万の大軍に守られた今川義元を急襲し、勝利して勢力を伸ばします。
 奇しくも、同じ1560年、天下分け目の戦いで西軍の旗頭、石田三成が誕生します。信長は、今川家の人質から解放された徳川家康と結び、天下統一に向いますが、1582年、本能寺で明智光秀の謀反に遭って倒れ、天下の行方は混沌とします。家康はこのとき信長の配慮によって、堺で接待を受けておりましたが、甲賀忍者の頭、服部半蔵や摂津、佃の漁師達に助けられ、命からがら三河に帰りました。そのとき秀吉は、備中高松城を水攻めで落とそうとしておりましたが、知らせを聞いて、急遽和睦して昼夜を分かたず、大返しで駆けつけ、山崎で明智軍を粉砕して主導権を握ります。このとき、道中の住民に協力を要請し、兵士の移動や補給に奔走したのは三成でありました。信長の旧臣柴田勝家を賤ヶ岳に破って、1588年小田原で北条氏も破り天下を手中にしました。関白から太閤となりましたが奢り高ぶって朝鮮に出兵し、戦力を消耗し、失意のうち1588年に死亡。この僅か2年後に、関ヶ原で東西両軍が、合い間見えることになります。
 家康のこの2年間を見ますと、御法度であった大名同志の婚姻を画策したり、傍若無人な振舞いは、意識して陰に陽に反徳川勢力を挑発して何とか刃向かわせて、一網打尽に討伐するように仕向けております。
 国元に帰った上杉景勝に使者を遣わし、中央の政治を放棄し、国の防備を固めるのは謀反の疑いあり、上洛して釈明せよと糾弾しますが、これに対し上杉、直江主従は一歩も引かず、家康の非を咎め、正々堂々と挑戦状をたたきつけました。直江状として後世まで伝えられています。利家の死後、前田藩では二代利長は恐れをなして母親を人質に出した程の家康の威光は踏み躙られ、怒り心頭に達して上杉征伐に向かいます。
 私が奥州街道を歩き、宇都宮から次の宿場白沢を通ったとき、宿場の有力者達が、家康軍が鬼怒川を渡り会津に向かう際に献身的な協力を約束していたことを知りました。家康は小山で石田三成の挙兵を知って反転しますが小山の北五十粁の先へ目を向け周到な準備をしていたことが分かります。この協力によって白沢の有力者達は幕末までその地位を安堵されていました。
 関ヶ原の戦いは半日で決着しましたが、ここに到るまでは、家康の幼年期の人質時代から始まる長い間の隠忍自重がありました。
 「鳴くまで待とうほととぎす」の譬えは、よく家康の性格を表しています。
 家康が最初に陣を布いた桃配山は、1300年以上前に、ここで起った壬申の乱で勝った大海人皇子(のちの天武天皇)が兵士達に褒美に桃を配った故事によって名付けられましたが、家康は縁起を担いでここに布陣したのでしょうか。ところが勝ち組は桃どころか、功に応じて領地をもらい、負け組は領地没収、大幅な減封の処分を受けました。
 徳川幕府開府後265年経って、過酷な制裁を受けた薩摩、長州の二藩が合い携えて幕府を倒すとは家康も予想だにしなかったのではないか。これは歴史の不思議な巡り合わせでしょうか。
 石田三成の旗印は「大一大万大吉」であります。この意味は、大とは天下を表わし、「天下のもと一人が万人のため、万人が一人のために命を注げば、人々の生は吉となり太平の世が訪れる」ということであります。私は童門冬二氏の歴史街道での解説で初めて知りました。
 生命保険や損害保険がそのような思想で設立されたというPR用のコメントを見たことがあります。戦国時代、弱肉強食の世界で、400年後にも通用する思想を持っていた三成は素晴らしい逸材であったに違いない。
 秀吉との出会いはたまたま立ち寄った寺でお茶を所望した処、気の利いた淹れ方で、近習に取り立てられ、秀吉と共に飛躍します。
 しかし、天下人の秀吉が朝鮮征伐をするという愚挙に出たことが将に運命の辿れ目であったと云えるのではないか。朝鮮における武功派との対立があり、秀吉の死後、朝鮮からの撤退後もそれが尾を引き、虎視眈々と天下をねらっていた家康が狡猾にその亀裂を利用して天下を自分の手に引き寄せたに違いない。
 関ヶ原合戦当時の西軍、東軍叛応軍の配置図を見ますと、武将達のそれまでの紆余曲折とその後の趨勢を物語っているようで大変興味深いことであります。



 



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