東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(57)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 今年の全国高校野球夏の甲子園大会は、沖縄の興南高校が春夏連覇を達成し、県民の悲願を見事に叶えることが出来ました。これは単に暑さに強いだけではなく、戦後米軍による統治から、復帰を経て、今日の普天間基地問題に到るまでの全島民の鬱憤を球児達が晴らしてくれた喜びであり、他県では見られない熱狂ぶりでありました。
 9月25日〜26日に、東海道ネットワークの会の例会があり、テーマは「矢橋の渡しと朝鮮人街道」の探訪です。今回は例会出席の予習を兼ねて琵琶湖周辺の歴史探訪をします。
 広重の浮世絵に描かれている草津宿は、今でも続いている銘菓の老舗、うばがもち屋の繁盛振りですが、店の前に道標があり、「右やばせ道これより廿五丁大津へ舟わたし」と刻まれています。草津は東海道と中山道が交差しており、人の通行も物資の運搬も多く、京へのぼるには、2.5粁先の矢橋湊から大津へ渡れば、瀬田橋経由で3時間かかるところを、2時間で行くことが出来る。船賃は必要ですが、多少の時間が短縮され、その上、船から琵琶湖の景観を楽しむことも出来ます。
 「武士(もののふ)のやばせの舟は早くともいそがば廻れ瀬田の長橋(唐橋)」これは室町時代に柴屋軒宗長という人が詠んだもので、琵琶湖の湖上交通の安全確保は充分でなく、むしろ遠回りをしても確実な瀬田の橋を経由する陸路が無難であったことを示すものであります。江戸時代になると、船運も整備され、多くの旅人に利用されるようになり、「勢多に回れば三里の回り ござれ矢橋の舟にのろ」と詠われるようになりました。また、白帆を立てる船と、背景の比叡の山々が映え、「矢橋の帰帆」として近江八景のひとつに数えられています。
 二日目は朝鮮通信使と朝鮮人街道の探訪です。1597年、秀吉は二度目の朝鮮出兵を敢行しました。これは独裁者の我が儘で、得るものは何もなく、以来400年以上、先方は忘れず、今日の拉致問題まで尾を引いていると私は思いますが、徳川時代になって、家康は外交の正常化を図って、慶長12年(1607)から文化8年(1811)まで通算12回、将軍が代る毎に、幕府の招きでやって来たのが朝鮮通信使であります。朝鮮側も日本の再侵略予防の視察も兼ねて国書を携えて来ました。経路は京城(ソウル)、釜山から船で対馬、下関、瀬戸内海を経由して大阪へ、京都から陸路で近江、名古屋を経て、東海道を江戸に向います。470人の大使節団が京城と江戸の間、往復約3千粁、半年にわたる長旅でありました。近江では野洲から中山道と分かれ、近江八幡、安土、彦根を経由、鳥居本で再び中山道に合流して江戸に向うコースもありました。野洲から鳥居本までの38粁は朝鮮人街道と呼ばれました。私が15年前中山道を歩いたとき、何故当時の要衝である彦根、安土、近江八幡を通らないのかと疑問を抱いておりました。
 慶長5年(1600)関ヶ原で勝利した徳川家康は、今須、柏原、醒井、鳥居本から彦根、安土、八幡、野洲、守山、草津、大津を経て上洛し、天下統一の報告をしました。以来、安土街道、上洛道等と呼ばれました。二代秀忠、三代家光もこれに続きました。
 朝鮮通信使はなぜ近江の国では中山道を避け、この街道を通ったのでしょうか。俗説では「曲折に富んだこの道を歩かせ日本を広く見せようとした」、又「大名行列との出会いを避けた」、或いは「閑寂な中山道より近江商人の中心地八幡の豪華さを見せる為」、「使節優遇策として将軍と同じ道を選んだ」など諸説がありますが、私は外様大名と一般庶民を差別し、将軍家中心の聖道として、下層階級に踏ませなかった、という穿った見方も出来るのではないかと考えます。
 東海道ネットワークの会員の方に以前聞いたことがあるのですが、韓国では、秀吉軍が攻めて行ったコースを巡るツアーがあり、かなりの人が訪れ、400年前、日本人が残した爪跡を見て日本に対する憎悪を蘇えらせる仕組みが作られているそうです。
 若し江戸時代に訪れた朝鮮通信使の優遇振りを案内し、PRすれば、北朝鮮も含めて日本に対する見方も変わって来るのではないでしょうか。





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