『歴史探訪』(59)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
豊臣秀吉が天下統一の総仕上げとして、全国から大名を集め、小田原の北条氏を攻め滅しました。徳川家康に対しては、貢献した見返りとして、旧北条氏の領地を含め関八州を与えました。秀吉の狙いは極力自分の本拠地から遠ざけることにあったようですが、この移封がなされなければ今日の東京の繁栄はなかったことでしょう。
家康は関八州を水のネットワークで繋ぐことによって物質の流通に寄与させ、都市の発展をはかりました。旗本の大久保藤五郎に命じて天正18年(1590)井ノ頭を水源とする神田上水を開削し、寛永6年(1629)完成し、当時の人口30万の生活用水となりました。大久保氏はこの功によって主水(もんど)の名を賜りました。水は濁ってはならないので、モントと呼ばれたそうです。
その後、参勤交代等によって江戸の人口は膨張し、100万を超えようという勢いで、水が不足気味となりました。江戸幕府の要請に応えて、庄右衛門、清右衛門という兄弟により、多摩川に豊富な水源を求め江戸市中まで43粁米の上水が開削されました。
今回は「玉川上水」をテーマに歴史探訪をします。
私が大学を卒業して社会人になったとき、建設会社に勤め、路面電車であった京王線を地下鉄にする工事現場に赴任しました。脇に玉川上水が流れておりましたが、既に上水の役目を終え、沿道の住民が景観を楽しむ憩いの場になっていました。鉄道を地下に埋める際、元玉川上水を暫定的に直径2.7米の鉄のパイプを組み立てて流しました。仮設水路が完成していよいよ水を流しますと、驚いたことに水が上流へ流れ出したのであります。測量はしっかりやった積りでしたが、夜になると作業員が出来高払いの為、軟い土だけを掘って稼いだことと、私の監督不行届の為でありました。上司の主任は、江戸時代上水を開削した玉川兄弟が43粁の長さで高低差が僅か30米の緩い勾配に上水を建設する為大変な苦労をした話を私に聞かせ、「それに引き換え、お前の仕事は、500米もない距離で勾配を逆にするとは、立派な測量機械を使ってこの様は…」と惨々なお説教を頂き、50年経った今でも深く反省している次第であります。
玉川兄弟はいろいろ工夫して、竹を二つに割って水を入れ、少しづつ勾配をとったり、夜間、松明を等間隔にかざして確認したり、艱難辛苦の連続であったようです。当初は日野市の青柳から掘り始めましたが、軟い土質で水が浸み込んで消え失せた為、急拠羽村に取水個所を変え、難渋しました。兄弟は自分の家敷まで売り払って工事に注ぎ込み、見事完成させた功により玉川の姓を賜りました。
羽村で取り出された水は内藤新宿で地下に入り、江戸市中は桧、杉の木樋や石垣樋によって流され、継戸によって大きな桶でできた上水井戸に給水され、住民は竿釣瓶で汲み上げ利用しました。玉川上水は地域によって、亀有上水、青山上水、三田上水、千川上水の四上水に分岐されます。隅田川の東には上水は行き渡ることはできず、日本橋にある地下管の終末から水売りが方舟に汲んで、深川まで漕いで行き、各戸へは天瓶桶を担いで売り歩き、住民は高価な水を買って利用しておりました。深川はゼロメートル地帯で井戸を掘っても塩分が多く料理や飲料には適さなかったようです。
玉川上水は飲料水ばかりでなく、灌漑用水として武蔵野の新田開発に貢献しました。
明治31年(1898)新宿に淀橋浄水場が建設されるまで、玉川上水は江戸市民及び維新後の東京市民の飲料水となりました。淀橋浄水場は昭和40年に閉鎖され、跡地は新宿副都心と呼ばれ、東京都庁舍始め超高層ビル街となりました。
私は京王線地下鉄工事の後、新宿駅西口地下広場の工事に携り、その後、淀橋変電所から電力を副都心に供給する為のシールドと云って、もぐらのように地中を掘り進む工事に関わりました。その時は入社数年を経ており、前の失敗を生かして地下10米の地中を弧を描いて掘り進むシールドの測量を、精度抜群で僅かな誤差(20ミリメートル以下)で埋設工事は完成しました。
今、玉川上水は近隣の人が散策する公園となり、地図で見ますと、四谷から新宿を過ぎ久我山まではほとんどが暗渠で、以西は開渠となって羽村まで続いています。
作家太宰治が三鷹で入水自殺を遂げた頃は水量も豊富で景観も素晴らしかったようです。
昨年の初め、東海道ネットワークの例会に参加した際、案内して下さった神田川ネットワークの代表大松騏一氏が著した『神田川再発見』という大作を本稿執筆の為、久し振りに繙いて見ました。これは都内の水系を千人の仲間が足で踏査した貴重な記録で、私も未だ行ったことがない名所が如何に多いことかを再認識しました。今後は歩けるうちに、この本を片手に散策する楽しみが湧いて参りました。
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