武士道の歴史は比較的新しい。徳川時代中期の初め、幕藩体制が確立し参勤交代が始まって、各大名が江戸幕府のもとで組織され、士農工商の身分が形づくられた。士は最上級の身分である。また、当時は米本位制の経済で、各藩、そして武士の収入は何石取りというように、全て米で示されており、農は経済の基本とされているので2番目にランクされた。工は物をつくる、衣服、刀剣、その他生活に必要なものをつくる。しかし商は何もつくらないので最下位の身分とされたのである。
最上級の身分である武士はその身分にふさわしい矜持(きょうじ)を持たねばならないとされ、自然発生的に武士道が唱えられ、芽生えたという。従って武士道とはこうだというような書物は私には見当らない。新渡戸稲造が明治32年(1899)に「武士道」という書物を英文で発刊したが、この書物は英米人に我が国の道徳の基本は武士道である(欧米はキリスト教)とPRするための著作である。この書物を読んでみて、かなり内容に無理があるように私には思えた。要するに宗教教育が行なわれていない我国では、宗教教育に代るものとして武士道教育があると主張するために、無理を承知で英文で発刊したと思う。恐らく過去の文献が何もないので新渡戸稲造は徳川中期以降の武士の言動事例を参考に、良い言動を調べて手さぐりで書物をつくったのではなかろうか。
武士道の基本は義と勇であるが、この本によれば、仁、礼、誠、名誉、等が実生活のうえで必要なことであると述べている。
「仁」は思いやりである。民を治める者としては民への思いやりが必要であり、民と共に喜び、民と共に苦難に耐える名君について述べている。米どころ新潟から山あいの米沢へ移された上杉鳫山は「人民の立てた君であり、君のための人民ではない」と述べている。仁にはやさしく、母のような徳である。
「礼」とは他人に対する思いやりを形にして表現することである。武士道では人に挨拶をするときはどのようにするのか、どのようにお辞儀をするのか、どのように歩を運びどのように座るのか、等々の細かなことが教えられた。あらゆる礼法は精神を陶治するためのものとされ、奥ゆかしさは無駄を省いた行いでなければならないとされている。余りにも大袈裟なやり方はいけないのである。伊達政宗は「度を越した礼はまやかしである」と言っている。
「誠」は言と成のふたつの字を組みあわせた字である。武士道では嘘をつくことやごまかしは臆病とされた。「武士の一言」は重いのである。
「名誉」は武士の義務と特権にもとづいており幼い時から教えられている。「人に笑われるぞ」「恥かしくないのか」と少年の頃からしつけられられた。また取るに足らない侮辱に腹をたてることはよくないが、大義のための義憤は正しい怒りだと教えられた。武士はむやみに争ってはいけない。忍耐強さが大切であると教えている。西郷隆盛(南洲)は「天は他人も我も等しく愛している。我を愛する心で他人を愛せよ」と言っている。また武士道では孝よりも忠義を重んじるように教えている。個人は国(藩)をになう構成部分とされた。何よりも忠義なのである。
武士は本質的に行動の人である。従って教育は主として剣術、弓術、柔術、乗馬、槍術であり、上級武士には戦略、戦術、書、道徳、文学、歴史も学んだ。武士道は損得勘定をとらず、金銭を嫌い、金もうけや蓄財を嫌うのである。従って武士の子弟は経済のことを全く眼中に入れないように育てられたらしい。多くの藩で金銭の計算は小身の武士か僧侶にまかされたようである。武士道では理財は卑しいものとされている。この点渋沢栄一とは全く異なっているのである。
以上、新渡戸稲造の「武士道」について述べたが、実際の徳川時代の幕府の政治は良い地位につくためのまいない(賄賂)もかなりあったという。幕政はかなり乱れていたのである。
しかし各地の藩では、藩の学校をつくり、武士の子弟を集めて学問や武術を教え、武士道教育をしている。水戸や会津等では国学、また多くの藩では儒学が教えられたらしい。武士道は明治維新迄脈々と地方で生きていたのである。
|