私が小学校へ通っていた頃(昭和7年4月から昭和13年3月迄)木場の材木屋は関東大震災の痛手と昭和初期の大不況からやっと立直り、盛んに営業をしていた。大不況では大手の米材問屋の行き詰まりとその影響での中小業者の倒産があったが、それを乗越えた業者は河岸に倉庫、道をはさんだ向側に店と住居、当時は独身の若い店員が沢山居て、店の2階か店の裏の大部屋に寝起きし、朝早くから店や店先の清掃をし、7時頃に朝食、そして8時前から夕方暗くなる迄働いていた。番頭は独身なら個室、妻帯者は近くの長屋を借りて8時前には店へ来て店員を指図するのが普通で、番頭の居ない小店は主人が自ら先頭に立って働いていた。
休日は第一、第三の日曜日(月2回)あるのが普通だったが、仕入材が入荷すれば、その荷を降ろし倉庫内へキチンと整理するため、休日返上のこともあったらしい。
国産材の製材品を扱う業者が多く、その扱い材はそれぞれ専門化し、秋田材問屋、近県材問屋、川辺材問屋(昔は利根川や荒川を流送し千住で陸揚げして馬場へ積んで木場へ運んだので、川辺材と言った。)しかし鉄道が発達したので貨車で入荷し、墨田区の貨物駅でダルマ船へ積みかえて木場へ運ばれた。川筋に倉庫が有るのは舟で着いた木材を担いで倉庫へ入れるためである。それは大変な重労働で右肩がすり切れ、やがてもりあがって固くなっていた。私共の店員もすっかり固くなった肩をしている者も居た。(原木屋なので少ない)
話を元に戻し、秋田材、川辺材の他に遠州材(天龍からの材)、尾鷲(オワセ)材(桧の柱正角は丈夫なので天下一品)、吉野材(杉も桧も役物が多く光沢(コウタク)がある高級材)、田辺材(大きな山林を持つ五社と山林を少ししか持たない中小の新五社)杉が中心だが紀伊半島の西海岸なので大阪へ出荷されることが多かったが、大阪が安い時は東京へ若干は入荷した。また、安い貸家や長屋に使われる北海道のカラ松土台角やエゾ、トドの板類もあった。当時は持家は少なく貸家住まいの人が多かったので、これも需要が多かった。また遠く熊本の桧小角も入荷した。貨車積みすれば2?3日で着いたらしい。当時木曽材は国有林ではなく、皇室の所有で、帝室林野局(大手町の現パレスホテルの付近にあった。)が管理していた。特殊高級材なので仲々売れず困っていたようで、当店は桧丸太を引受けて東京で販売するようになり、国有林の青森ヒバの丸太も扱うようになった。木曽のサワラは桶用材なので販路が別であった。当時はご飯はサワラのおひつへ入れる事が多く、また風呂桶や洗い桶もサワラが多く使われており、帝室林野局が売れずに困っている時は青梅(奥多摩の青梅町)の桶屋に話して多摩地区の桶屋組合へ安い価格でまとめ売りをしたこともあったようだ。米材の商売がほとんど出来なくなってから、父は木曽材屋に変ったようである。
当時の木場の問屋はそれぞれ産地別に扱い材が専門化していたわけだが、木材市売やセンター等が無い時代なので、都内、近県は勿論、東北地区や山梨、静岡県の東部、長野県北部、新潟県東部の木材店も深川木場へ来れば色々な産地の製材品が有るので買いに来てくれたという。各店が産地別の製材品を扱っているので必要な材が揃えられるのである。旅館等大きな建物を造る場合は施主と共に来て施主にそれぞれの産地の木材を説明し、施主は予算を考えながら買う材を選んだようだ。必要な材は何軒もの産地別専門店を回って集めるので、大きな旅館等の材を集める時は1泊か2泊旅館へ泊って木場を回ったという。兎に角、昭和初期の大不況を越えた昭和10年代の初めは良い時代であった。
しかし、それも束の間。昭和12年7月に日中戦争が始まり、政府は軍の暴走を抑えることが出来ず戦線が拡大。広大な中国大陸で二進(ニッチ)も三進(サッチ)もいかなくなり、戦費の拡大で物不足、木材は重要物資として統制された。そして昭和16年12月に太平洋戦争へ突入し、昭和20年の敗戦を焼け野原になった木場で迎えたのである。まさに人生良い年月と悪い年月が交互に来るものである。悪い年月はじっと我慢して生き延びるのが、家業を続ける道なのかも知れない。「三歩進んで二歩下がる」非常に消極的なことであるが、無理をしない生き方もあるように思っている。
「禍福は糾(アザナ)える縄の如し」悪い後は良いことがあり、良い後は悪いことがあるのが人生である。
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