東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.132


「二宮金次郎」と「報徳二宮神社」
青木行雄

※本殿の前にある縄で作った大きな輪。これを4〜5回くぐって本殿に行く。ご利益があるらしい。

 ある財団のバスツアー「今市七福神めぐり」に参加した。七福神と言うから、7神仏だと思ったら、8ヶ所廻る。今市宿七福神のパンフレットの中にも8ヶ所あって、「報徳二宮神社」が追加され、8福神となったのであろう。
 中年以上の人で「二宮金次郎」の名前を知らない人はいないと思うが、この今市「報徳二宮神社」で改めて、小さい頃薪を背負い、本を手にした少年金次郎の像を思い出した。もちろんこの神社にもこの像があった。そしてこの今市の地で70才の生涯を閉じたと言う。金次郎は小田原で生まれ、藩や村の財政再建、復興に成功させたが、なぜこの今市なのか。この金次郎を祀る「報徳二宮神社」に深々と頭を下げ、知の輪をくぐり、お墓にお参りをした。そして調べる事になったのである。

※道徳教育の基本みたいに思われるこの像。小さい頃よく見た像である。金次郎の小さい頃の姿である。
※史跡二宮尊徳と書かれているがこの辺りが史跡で奥に墓がある。
※本殿。小さな神社だが、二宮尊徳神社として、人気があり、年間かなりの人が来ると言う。

 二宮金次郎について
 相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に百姓利右衛門の長男として生まれる。当時の栢山村は小田原藩領であった。金次郎が5歳の時、寛政3年(1791)8月5日、南関東を襲った暴風で付近を流れる酒匂川の坂口の堤を決壊し、金次郎の住む東栢山一帯が濁流に押し流されてしまった。その影響で父利右衛門の田畑も流出した。
 金次郎14歳の時父利右衛門が死去、2年後に母よしも亡くなり親戚の協議により弟2人は母方の実家にひきとられ、金次郎は伯父二宮万兵衛の家に預けられた。伯父の家で農業に励むかたわら、荒地を復興させ、また僅かに残った田畑を小作に出すなどして収入の増加を図り、20歳の若さで生家の再興に成功する。
 この当時20歳の頃の金次郎の身長は6尺(約180センチ)、体重は94KGの無理のきく誰にも負けない、頑丈な大男であったようだ。
 生家の再興にわずか3年半で成功すると金次郎は地主経営を行いながら、小田原に出て、武家奉公人としても働いた。奉公先の小田原藩家老服部家でその才能を買われて奉公した。服部家は当時かなりの財政難であった。この建て直しを僅か5年で再興、見事に成功させて小田原藩内で名前が知られるようになる。その才能が見込まれて、小田原藩大久保家の分家であった旗本宇津家の知行所であった下野国桜町領(栃木県旧二宮町周辺、なお同町の町名の由来は二宮尊徳である。現在の真岡市)の仕法を任せられる。
 この小田原藩の家老服部家の財政再建をきっかけに小田原藩に登用され農民から武士へと出世し、600以上もの藩や村の財政再建、復興を成功させたと言う。
  晩年、老中水野忠邦によって江戸幕府に登用されてからは、日光神領の開発に尽力した。そして下野国今市村(日光市)報徳役所にて没した。安政3年(1856)11月17日70歳だったと言う。
 そして没後の明治24年(1891)11月16日に従四位が追贈されている。
 「二宮尊徳の墓」のある終焉の地、栃木県日光市今市743番地にある「報徳二宮神社」に縁があって、1月七福神の一宮に参拝して来た。

 二宮尊徳の教え

 (1)「至誠」 (2)「勤労」 (3)「分度」 (4)「推譲」
 (5)「積小為大」 (6)「一円融合」
  こんな教えがあるので資料より解説してみる。

(1) 「至誠」
至誠とは真心であり、「我が道は至誠と実行のみ」という言葉の通り、尊徳の仕法や思想、そして生き方の全てを貫いている精神である。
(2) 「勤労」
人は働くことによって、生産物を得て生きていくことができる。
また、働くことを通して智恵を磨き、自己を向上させることが出来ると説いている。
(3) 「分度」
人は自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい生活を送ることが大切であり、収入に応じた一定の基準(分度)を設定し、その範囲内で生活することの必要性を説いている。
(4) 「推譲」
節約によって余った分は家族や子孫のために蓄えたり(自譲)、他人や社会のために譲ったり(他譲)することにより、人間らしい幸福な社会が出来ると尊徳は考える。
(5) 「積小為大」
小さな努力の積み重ねが、やがて大きな収穫や発展に結びつくという教えである。小事をおろそかにする者に、大事が果たせるわけがないと尊徳は考える。
(6) 「一円融合」
全てのものは互いに働き合い、一体となって結果が出るという教えである。例えば、植物が育つには水・温度・土・日光・養分・炭酸ガスなど、いろいろのものの徳が融け合ってひとつになって育つのである。

 「報徳訓」碑に書かれている碑文を二宮尊徳資料館配付資料より記して見た。
  尊徳の教えや、報徳訓は人間が生きていく上で大事なことを網羅しているようにも思われる。

『報徳訓』碑

報徳訓
(1)「父母根元在天地令命」
  父母の根元は天地の令命に在り

(2)「身體根源在父母生育」
  身体の根元は父母の生育に在り

(3)「子孫相續在夫婦丹精」
  子孫の相続は夫婦の丹精に在り

(4)「父母富貴在祖先勤功」
  父母の富貴は祖先の勤功に在り

(5)「吾身富貴在父母積善」
  吾身の富貴は父母の積善に在り

(6)「子孫富貴在自己勤労」
  子孫の富貴は自己の勤労に在り

(7)「身命長養在衣食住三」
  身命の長養は衣食住の三に在り

(8)「衣食住三在田畠山林」
  衣食住の三は田畑山林に在り

(9)「田畠山林在人民勤耕」
  田畑山林は人民の勤耕に在り

(10)「今年衣食住昨年産業」
  今年の衣食は昨年の産業に在り

(11)「来年衣食在今年艱難」
  来年の衣食は今年の艱難に在り

(12)「年年歳歳不可忘報徳」
  年年歳歳報徳を忘るべからず

 通称は「二宮金次郎」正しい表記は「金治郎」。公人としては「尊徳」(そんとく)と言うが、正式の読みは「たかのり」と言う。
 江戸時代後期に前記のように「報徳思想」を唱えて、「報徳仕法」と呼ばれる、農村復興政策を指導した「農村家・思想家」でもある。

尋常小学唱歌「二宮金次郎」の歌

 1 柴刈り縄ない 草鞋をつくり
      親の手を助け、弟を世話し
       兄弟仲よく孝行つくす
         手本は二宮金次郎

 2 骨身を惜しまず 仕事をはげみ
      夜なべ済まして 手習読書
       せわしい中にも たゆまず学ぶ
         手本は二宮金次郎

 3 家業大事に 費えをはぶき
      少しの物をも 粗末にせず
       遂には身を立て 人をも救う
         手本は二宮金次郎

 この唱歌も古い人は歌ったことがあると思う。

 最近はほとんど見られなくなったが、薪を背負いながら本を読んで歩く姿の「二宮金次郎」は全国至る所で見られたと思う。戦後、道徳教育の貧退からか姿を消しつつあるが、まだまだ岐阜市や静岡地方にはかなり像が見られると言う。戦前の像は銅製のものが多かったと言うが、大戦中に金属提出により無くなった。そして石像になったりコンクリート像になったりもしたようである。

 尊徳の教えは弟子達によって報徳運動として広められ、経済だけでなく、各分野でも注目されている。戦前はすべての小学校の教科書に掲載され道徳教育として教えられて来たが、今はほんの一部しか掲載されていないと言う。残念である。
 そして、二宮尊徳を祀る「報徳二宮神社」は生地の小田原(報徳二宮神社)、終焉の地・今市(報徳二宮神社)、仕法の地・栃木県芳賀郡二宮町(桜町二宮神社)等にあるが、私はこの今市の報徳二宮神社へ初めて対面した。そしてこの終焉の地に尊徳翁のご遺体すべてが安置され、この報徳二宮神社の境内にある如来寺に葬られている報徳二宮神社は二宮尊徳の墓として、学問・経営の神様として多くの人々に親しまれているのである。

 最近の世相を見ると、この考えが忘れられており、これこそが日本人の学ばなければならない原点ではないかと改めて感じた次第である。

参考資料
二宮尊徳資料配布資料
二宮神社参拝のしおり
『日本史年表』 岩波書店

平成23年2月6日 記


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