東京木材問屋協同組合


文苑 随想

見たり,聞いたり,探ったり No.134

東日本大震災、お見舞申し上げます。
  今すべての神事、仏事等も大震災の復興を祈祷しています。

「春日大社」と「春日祭」
青木行雄

※※中門、御廊の正面、ここから入場し4柱の神様が鎮座の場所となる。

 春日大社は、今からおよそ1300年前、奈良に都ができた710年(和銅3年)、日本の国の繁栄と国民の幸せを願って、遠く現茨城県の鹿島神宮に祀られていた、「武甕槌命」を神山春日山(御蓋山)頂上の浮雲峰にお迎えし、春日大社の創始とされている。やがて天平の文化華やかなる768年(神護景雲2年)11月9日、称徳天皇の勅命により、左大臣藤原永手によって、中腹のなる今の地に壮麗な社殿を造営して、現千葉県の香取神宮に祀られていた「経津主命」、そして現大阪府枚岡神社に祀られていた「天児屋根命」と「比売神」の尊い三柱の神々をお招きし、あわせて四柱の神様として、現在の地に社殿を造営し祀られたのが春日大社の始まりとされている。

 春日大社はもともと藤原家の氏社として創建されたようで、平安時代には藤原家の隆盛と共に拡充され、大いに栄えたようである。

※春日大社の回廊内、全面の様子である。東武ワールドの模型を写した写真。

 御祭神である「武甕槌命」神様、「経津主命」の神様は、日本の国を秩序ある国にするためにあらゆる神々と交渉され、平和裡に治められた功績ある神様である。また「天児屋根命」神様は神事と政治を守り導かれる神様として、「比売神」神様は「天照大御神」神様とも「天児屋根命」神様の妃神とも伝えられているようだ。
  春日大社の神々様は平和と愛の尊い神様であり、それぞれの霊験を仰ぎ御加護を頂いてきた、この四柱の神々様は、それぞれ端正な春日造の御本殿(国宝)に鎮座されており、最も尊崇すべき神々として春日皇大神、春日四所明神、春日大明神と言われている。

 御創建以来春日大社は、千古の森の中に朱の柱、白い壁、そして自然の檜皮屋根の本殿・社殿が往古と変わらぬ壮麗で瑞々しいお姿で鎮まっている。これは、20年毎に斎行されている式年造替という制度により、社殿の御修繕、御調度の新調、祭儀の厳修により日本人の命が連綿と受け継がれてきたからである。
  境内を歩くと清々しく尊厳のある気が境内に満ち、神様の広大無辺の力や有り難さがしみじみ感じられる気がする。
  全国3000に及ぶ春日の分社があり、境内に奉納された燈籠は3000基以上、その厚い信仰はすごいものがあると思う。
  そして今日も昔と変わらず、毎朝毎夕の神事の御奉仕が行われているが、3月11日に発生した東日本大震災の一日も早くの回復を朝夕祈祷していると花山院宮司はおっしゃっていた。
 

 春日大社へのアクセス地図

 近鉄奈良駅から国道369号線を東の方向に進み、県庁東の交差点を右に曲がり約250m、「一の鳥居」前で左に回り参道を進んで行く。春日大社の表参道である、「二の鳥居」をくぐると「手水場」がある。ここの手水場は鹿の像が口にくわえる筒から出る水で手をあらう。しばらく歩き、短い石段を上がると「南門」に着く。

祭 神(4柱の神様)
武甕槌命(たけみかづちのみこと)
 向かって一番右側の本殿(第一殿)に祀られている。

経津主命(ふつぬしのみこと)
 右から二番目の本殿(第二殿)に祀られている。経津主命と武甕槌命は、天照大御神の子孫が高天原から降臨するに際し、大國主命ほか多くの神様と和平を結ぶ功績のあった神様とされている。

天児屋根命(あめのこやねのみこと)
 右から三番目の本殿(第三殿)に祀られている。
 天児屋根命は天の岩戸に籠もった天照大御神を岩戸からお出ましを願うために、お祭りを行った神様といわれている。

比売神(ひめがみ)
 一番左側の本殿(第四殿)に祀られている。

※春日大社の祭神は慈悲萬行の神として崇敬されており、例祭には五穀豊穣の祈願が行われている。

※春日大社の平面図である。御本殿の4柱右から1殿、2殿、3殿、4殿となる。

※勅使以下数十名が続いて本殿に向う。まるで王朝絵巻そのものだ。白馬2頭も連れているが、乗馬はなかった。
※この箱の中に神様4柱への陛下からの御幣物が入っている。
※直会殿にて、御供の神酒を勅使へ、儀式の様子が分かる。
※神前の前庭、林檎の庭にて、琴や笛など儀式にしたがっての神前作法、この後「和舞」の「排舞の作法」があった。
※人が食するだいたいの食べものが見られ、豪華な品々と言える。
写真の通りでいろいろの種類が見える。全部本物をそろえて供える。
※直会殿内にいる招待者や特別招待者が、勅使をお迎えするため、参道に向う所である。約200名。
※招待者の面々だが右下に見える「玉砂利じゅうたん」が良くわかる。この上を「勅使」が歩くのでさけて歩いている。
    

春日祭(申祭)
 春日祭とは春日大社の例祭であるが春日大社の様々な例祭の中でもこの春日祭はメインのお祭りである。
 その始まりは社伝では第55代文徳天皇の850年(嘉祥3年)(千百余年前)といわれているが、すでに嘉祥2年に執行されていたという。
 第56代清和天皇の859年(貞観元年)11月9日(約千百年前)には庚申の夜に斎行され、それからは春2月、冬11月何れも上の申の日を以て祭日と定められた。これが申祭の名の起りであると言う。
 その後1871年(明治4年)の旧儀による祭祀廃止に伴い、簡単な一般祭祀となり、祭日も干支による日取は廃され2月1日となったが、明治天皇の旧儀御再興の思召により、賀茂祭、石清水祭に続いて1886年(明治19年)に復興され、3月13日を祭日と定められ今日に及んでいる(明治19年の旧暦2月の上の申の日が新暦の3月13日であった為)。
 春日祭は三勅祭(賀茂祭、石清水祭)の一つで、849年(嘉祥2年)に都の守護と国民の繁栄のお祈りをするために始められたと伝えられている。
 勅祭は、天皇の命令によって行われる祭祀のことで、その意志を伝えるために遣わされる特使を勅使と言う。
 この祭りは、宮中から勅使がお参りになり、その勅使が司祭されて行なわれる。

※勅使 天皇陛下の御使で御祭文を奏上する。装束は黒色の縫腋の束帯で道中は帯剣する。

 原則として藤原姓から選ばれる勅使が、自ら御神饌を供え、祭文を奏上し、祖神とともに直会(会食)をする氏神祭の本来の儀式にのっとって行なわれる。

※御神餞 古式どおりに調理された珍しい食事で、祭儀は王朝の絵巻物そのもので、見ていて、不思議な感じだった。

 この3月13日だけ、二の鳥居から本殿に至る参道の中央部分(幅約1mぐらい)の玉砂利が、うず高く盛られる。この高く盛った玉砂利の上を勅使が歩く、この道を「玉砂利じゅうたん」と呼んでいる。

 本祭は3月13日午前9:00頃より始まるが、古式のしきたりにのっとり行われるので、3時間以上かかった。神前は中門の奥なので、見ることは出来ないが、神前の様子はテレビによりうかがった。春日大社は説明の通り、4柱の神様を祀っているので、同じ事を4回くり返すため、その時間はより長時間必要となる。
 祭儀は王朝の絵巻そのもので、服装はすべて古式、ふるまい行動もすべて古式、道具も古式、すべて王朝そのものだった。
 普通神前では巫女の女性が舞うが、ここの和舞は男性4人が砂上、林檎の庭で4角になって舞う。珍しい舞だった。御本殿での儀式以外の儀式は、林檎の庭と舞殿、直会殿にて行なわれたので、直会殿の招待席から見ることは出来た。

 春日大社と春日祭についてちょっと詳しく記して来たが、1000年以上も昔のことを今に再現し、今まで続けて来られたことは大変な事と思うし、これが出来たと言うことは、すばらしい日本のしきたりであり、平和でもあると言う事だろう。















 


※登場する人達の服装と服の色、役割を記す。この人達がこの鳥居から本殿まで、歩いて参上する。

※勅使以下儀式に参列する参勤者の履物はこの写真の物、実に動きにくい履物と思う。
  この度の大震災において、月並の言葉しか言えないが、一日でも早く復旧復興される事をお祈りし、又災害に遇われた方々にお見舞申し上げます。

平成23年4月3日 記


前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2011