「吾奴は折紙付きでご猿」。…という言葉が今でも我々の生活の中に生きておりやす。因って、今回はその「折紙」の出番でご猿。一般的に「折紙」と言えば、「正真証明・間違いナシ」←貴方の事、の「鑑定書」だと思われるでしょうが、ドッコイその解釈は正確には多少違うのでご猿。そもそも刀剣の鑑定書と申す物は「本阿弥家の保証書」と言うのが正解でありまして、奉書紙を横長に二つ折りにして(これが折紙の語源です)、様々な用件を書いた文書の事でござんす。
奈良から室町の半ば頃迄(約850年)は、奉書紙の全紙を使って消息(手紙)を書いておりますが、これを「竪文様式」と云い、和歌や詩を書く場合は「懐紙」と称します。ところが、桃山から江戸時代になりますと、和歌の場合は別ですが、消息は折紙形式が流行りとなりました。巻紙と折紙の幅が同じため、巻紙全紙を横折りにして二つに切り、継ぎ足した物であります。室町末期の信長や秀吉などの武将の消息も、この折紙形式で多く残されております。
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折紙の場合は折り目を下にして書き、それでも足りない場合は裏に書いております。裏に書いても読む場合には支障は無いですが、全紙を広げて見ますと裏の部分が逆様になりますので、軸物等に仕立てる場合は見た目が悪いため、どうしても真中から切って接ぎ足すか、下に付け加えた書式が多くなりました。
刀剣鑑定の家元であった本阿彌家は全てがこの折紙形式でしたので、折紙と言えば、この鑑定書に直結する様になりましたが、正しくは「本阿彌刀剣鑑定折紙」と申します。
同様に徳川幕府のお抱え金工の後藤家は小道具の鑑定書を出しており、これも大変に信用の高い鑑定書です。折紙形式で「後藤家小道具鑑定折紙」と言われております。
本阿弥家は足利尊氏に仕えた菅原長春を租としており、長春は菅原五条高長の庶子で、剃髪をして妙本または本阿弥と名乗った様です。本来の家職は砥師でしたので、刀剣の目利(鑑定)には絶対な自信を持ち、その裏付けの資料も膨大に揃えておりました。「家系」としては次の如くですが、この内から十二の有力な分家が輩出しております。
(1)初代・妙本、(2)本妙、(3)妙大、(4)妙秀、(5)妙寿、(6)本心、(7)光心、(8)光刹、(9)光徳、(10)光室、(11)光温、(12)光常、(13)光忠、(14)光勇、(15)光純、(16)光久、(17)光一、(18)光鑑、(19)忠明。
尚、代々の読み方に特色があり、コウトク・コウシツ・コウオンと音読をしています。
分家の内で特に有名な者は,七代光心の系統に多芸多能であった光悦が出ております。
室町幕府に同朋衆(将軍や大名の身の回りの世話をする僧侶) と云う職名が出来て、それより阿弥号を全員に附ける事となり、初代も「妙本阿弥陀仏」を略して「本阿弥」と称したとの事であります。他に金工にも喜阿弥・正阿弥などが居り、同職以外の同朋衆(6名)の中には猿楽師より出て、能楽の祖となった世阿弥や連歌の能阿弥もおりました。
本阿弥一族もこうして足利将軍家・信長・秀吉・家康と歴代の権力家に仕え、地方では数多い分家が、それぞれの大名に抱えられ鑑定家としても各地で活躍をしていました。
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上段:明暦元年本阿弥光温折紙(1657)
中段:延宝元年本阿弥光常折紙(1673)
(後鳥羽上皇の作)
下段:正徳元年本阿弥光忠折紙(1711) |
又、折紙は何分にも武士の表道具を取り扱う為、次の様な厳しい「掟」が御座居ました。
(1) |
折紙を発行するには、本家と12の分家が月の3日に集まり鑑定依頼の刀剣に付き、十分に検討を重ね全員一致の場合にのみ、本家の名前で折紙の発行をしています。
尚、三日と云うのは本阿弥家の先祖の妙本の命日が文和弐年四月三日という事でして、必ずこの日が会合日でしたので、日付けが三日以外の折紙は要注意で有れば偽物です。 |
(2) |
銘のある物に付いては、その銘の鑑定をして間違いの無い物に限り、「正真」という文字を書き入れて「折紙」を発行しております。無銘の物は誰の作かの検討をして、刀匠名が全員一致の場合のみ「正真」と書き、その下に寸法と状態を書き加えまして、(例えば、スリ上げ無銘也、と書き添える)発行を致しております。 |
(3) |
次に「代金子10枚」とか「代二千貫」と代付けを書き、次に小さく年と干支を書く、次は大きく「○月三日」その下に花押を書き、裏の本阿花押の所に角印を押します。 |
(4) |
月の名は、一月・二月・弥生・卯月・五月・六月・七月・八月・九月・十月・霜月・極月・の名称を用い、その下に必ず十二支を記入しています。
月の記載で三月は三(ミ→身を切る?)と書き、四月は死(シ)に繋がるので四は止めて卯月とし、十一月・十二月は三字となる事を避け、霜月・極月としています。
尚、本阿弥での折紙の発行は、九代の光徳からと云われて居りますが、これは間違いで光徳の子供の光室からであり、若し光徳の折紙があればそれらは全て偽物であります。
折紙中、光室・光温・光常・光忠、を古折紙と称し珍重しますが、これと光徳の極めの鑑定は誠に的確で感服の至りで、伺う異儀を申す事はありません。
又、本阿弥本家には、光徳が太閤秀吉から賜ったという、下記の如き銅印があります。この「二重枠の中に本の字」の角印は光室以来、本阿弥家の代々の折紙や小札などの紙背(裏)には必ず押されております。 |
(5) |
古来、鑑定に於いては無銘物に付いては「一枚さげる」と云う慣わしがあって、例えば正宗と見える刀でも貞宗と定め、貞宗と言ってもよい程の刀に、信国という折紙を出している。この事は本阿弥としては大変に立派な見識で肯ける事でご猿。 |
(6) |
本来、古〜中折紙の時代は折紙の対象とする刀剣は古刀に限られていたが、幕末になると新刀にも極めている。しかも一枚下げて極められていた物が、一枚上げて付けられている。無銘物は、手掻・尻懸・当麻と流派のみであったが、後代は個名が多く付いている。これも世情の然からしむ所である。 |
(7) |
江戸も半ばを過ぎると折紙を発行する場合には、必ず刀の一本一本に詳細な調書が付けられて、寸尺は勿論の事ながらキズの状態〜打込み傷・受傷・相手〜戦場、匂切れ、堅割れ、刀のランク、贈答品する場合の適・不適の判定、現行の代付。これらが「折紙台帳」に記載されている、この台帳は元々は本阿弥家にて保管をしていたが、維新後に宗家から出ており、関東大震災で被災し、残念乍360冊の全てが焼失したと云う。 |
次回はこの続きの代付け(価格)より、スタートします。
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鐔波に耳長兎図 |
本阿弥の印 |
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