慶長五年(1600)、天下分け目の関ヶ原で徳川家康が完勝。元和元年(1615)に大坂城が紅蓮の炎と共に炎上して豊臣家が滅亡。慶長八年(1603)家康に征夷大将軍宣下となり、徳川幕府が江戸に誕生。以来、家康・秀忠と苦労人が盤石の基礎を築いて、三代家光にバトンタッチをするが、彼は大大名が居並ぶ将軍就任の挨拶で「余は生れ乍らの将軍である」と開口一番のたまったのでご猿。この宣言はこれからは「誰に遠慮もせず自分の思い通りの方針で政権の運営をやるぞ!」という全国の大名への宣戦布告でご猿った。
以来、乳母である春日局や天海和尚をバックに次々に各大名の改易を断行し、将軍の権威を示し、最後には母親である「お江の方」の溺愛する弟の駿河大納言忠長も謀反の嫌疑で上州高崎城に幽閉の後、腹を切らせている。
その後、人員整理が一段落すると、大坂城の修築や江戸城の惣郭の構築を始めとして、武家屋敷の整備や忍ケ岡の寛永寺や各地に東照宮や日枝神社等の寺社の建立を奨励し各大名がドサクサ紛れに稼いだゼニを吐き出させ、江戸の町造りをスタートさせました。
そこで登場をするのが、久しく息を潜めていた賂(ワイロ)でご猿。世の泰平に伴ない挙句の果てに武士は惰弱となり果て、奢侈の風が流行り、自ずからして物価も高騰し、権勢の赴くところ頻りに賄賂が横行する事となった。これは五代綱吉の治世に伴ない、元禄初頭に柳沢吉保がお側用人となり、果ては老中となる過程に於いて殷賑を極めて、後の世にも語り継がれる「○○元禄」と言う言葉が生まれるルーツとなった程である。
当時の賂は二通りの解釈が成り立ち、一般的な「袖の下」は武家も町人も「ご法度」で露見すれば、テ〜ヘンな事になりロハでは済まなかったが、武家と武家の間に於いての得物の贈答はワイロの概念の中には入らなかったのでご猿。「刀は武士の魂でご猿ので、数多の武勲を立てる為には絶対に必要な物なのでご猿、これを贈る事はお互いの礼儀に叶い当たり前の事でご猿」。〜と云うのがその理由でござった〜が、かなり苦しい。
その為に神聖なるべき「折紙」が都合の良い様に利用をされたのでご猿、その方法は「サル人がアル目的の為にサル方に金子を贈り度い」と云う場合は、本阿弥家に出向き用向きを述べ、届けたい金額を渡すと、合点!と承知をした本阿弥はその金子の折紙を作り、適当な刀と合わせて、依頼されたサル武家の門を叩く、用人が出て来ると来意を告げ折紙と刀を贈呈をする。数日してその武家よりお呼びが掛り出向くと、用人いわく「…当家にも先般の迷刀の類はタントござるので、そちに下げ渡すが如何か?」となり刀剣と折紙が戻されると、「…左様でございますか、それではコレを…」と本阿弥家が前以て武家から預かっていた、折紙の額面通りの金子を渡して目出度く一件落着となる。
この場合、肝心の武士の魂の刀はどうでもよい事となり本末転倒であるが、この様な風習は時に於いて引継がれ、始めが元禄(1688〜1703)の「柳沢折紙」、次が安永・明和(1764〜1780)の「田沼折紙」となり、これ等の折紙は適当に寸法だけを合わされた刀と共に市中を遊泳しておりやすので、愛刀や家宝とされる場合は充分にご注意を願います。
その様な訳で折紙も二通りあり、九代の光徳の極め(光徳には折紙は無く極めダケ)と、光室・光温・光常・光忠の折紙は古折紙と称して、今でも別挌に扱われる程なのですが、これらの折紙は誠に頭が下る程の的確な立派な鑑定でご猿。
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・太刀 銘 包友 |
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折紙の例(1) 本阿弥光室(元和九年)(1623) 国宝 |
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・太刀 銘 来国光 嘉暦二年二月日 |
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折紙の例(2) 本阿弥光温(承応三年)(1654) 国宝 |
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刀 肥前国忠吉 |
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後代折紙の例(本阿弥光一)安政六年(1859) |
※上図の解説 (1)図は和州(大和)の包友の国宝の太刀です、(3)の肥前国忠吉と折紙は金子七枚(大判)で同金額ですが、年代が236年も違いますので価格の比較は出来ません。多分、江戸初期の元和(1615)と幕末の安政では価値は100倍近く違うと思いますので、その計算でみてください。又、古刀の包友と新刀の肥前の忠吉では挌が違い過ぎます。
尚、山城(京都)の来国光も国宝で包友と時代は合いますが、代付けは少し違います。その昔は同格の時代が続いたと思いますが、渋さと派手さと知名度の差だと思います。
次回(六月号)は「ご猿孝」と致します。
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京透し鐔 松皮菱と若芽の図 江戸初期 |
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