東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の89 「ご猿言葉・考」

愛三木材(株)・名 倉 敬 世

 つらつら考えるに、少生はセンテンスの区切りに矢鱈と「ご猿」と云う言葉を使う事が良くご猿。これは無くて七癖のクセとも云える分野でもあり、戯言の類でもある訳なので、忙中閑ありの折りに良く出て来る様な気も致しております。さすればヒョツとすると余り使うのは数多居られる?、「日本の文化・日本刀」の愛読者の皆様に失礼に当たるのでは、ないかぃなと思い、歩いて三分の都内で二番目に古い「深川図書館」に日参して、古文書を紐解いて調べて見ました結果が以下の通りで御座りました。

 この「御座る」と云う言葉は今では時代劇の専門語だべ、と思っている方が多い様ですが、ドッコイ、左に否ずで、今でも特に親しい間柄では「左様でござる」は良く使われており、「おサルのお尻は真っ赤でござる」は特にふざけた場合に限られるが、その「ござる」の鯱ばって間の抜けたイントネーションが何ともユーモラスに聞えて笑えるのでご猿。

 「猿」と申せば、反射的に「秀吉」と出て来るが、確かにその風貌や仕草は「そっくり!」と神の如く恐れていた信長も証言しており、又、他に当時、信長と敵対していた、毛利方の武将であり、医師の玉木吉保の著した『身自鏡』にも詳細に現はされており、その猿面冠者の実態を良く伝えてご猿。

 ところで、その昔に使われた「御座る」言葉のルーツは何かと申せば「おはす」でご猿。「おはす」には「居る」「住む」「在る」と言う意味もござるが、その使用の時期は古くて延喜元年(901)の『竹取物語』に「〜われ、朝ごと夕ごとに見る竹の中におはする」とあり、又、『源氏物語』(1008)にも頻繁に使われていて、「桐壺」の巻きで高麗よりの人相見が幼少の光君を見て「帝王の上なき位に登るべき相におはします人」「燈を掲げ起きておはす」等。更に『宇治拾遺物語』(1213)や『十訓抄』(1252)にも出ており、これらはかぐや姫や源氏の光君であり、また『宇治拾遺物語』でも主体は聖僧や高位の公卿なので、「おはす」は最高級の敬語として使われ、「何事のおはしますかは、しらねども、かたじけなさに涙こぼるる」と伊勢神宮の讃歌に歌われている程の敬語中の敬語なのでござる。(讃歌=褒め称える歌)

 さて、その「おはす」が何時ごろ「ござる」に変ったかと申せば、大体の境目としては、南北朝の正平(1346)頃に始まった「能・狂言」で変化をしたのではないかと思われているが、何故、狂言でこの高貴な「おはす」言葉がすっかり落ちぶれてしまったかと申せば、当時の大蔵流の能・狂言の三大名題の一つに「粟田口」と言う演目があり、その中で「おわす」と云う処が単に「わす」となり、その使う相手も公卿や高僧では無く、朋輩や従者となった。狂言の中での「〜東馬之允、わするか」は従者の東馬之充に「居るか」と尋ねたのであり、この事によっても能が猿楽と言われていた室町前期には既に敬語抜けがしていた事が判る。

※「粟田口」京都東山区北端の地名。古くは東国街道へ抜ける関(等利伝)の名、中世にはここに鍛冶場があり多くの名工を輩出しており、粟田口は名刀の代名詞ともなってご猿。

御物 太刀 銘 国綱 (名物・鬼丸)

 太刀 銘 国綱 (名物・鬼丸)長さ 78.2 cm(二尺五寸二分)鎌倉時代前期。御物・国宝。 
 国綱は藤六左近と称し粟田口派の六人兄弟の末弟、執権・北条時頼に召され鎌倉に赴き作刀、号の由来は『太平記』によれば、時頼の父の時政が夜な夜な鬼が出る夢を見て魘されるので、国綱の太刀を枕元に立掛けて置いた所、ある夜半に太刀が自ずから抜け出て、火鉢の台の飾りの鬼の頭を切り落とした。それにより北条四郎時政の病も快癒した、との伝説による。
 併し、時政と国綱では年代が合わない為、「能阿弥本銘尽」には「西明寺殿祟鬼丸作」で時頼となっている。北条高時が自刃(1333)の後、新田義貞の手に渡るが義貞が翌年に戦死し足利尊氏に伝う。翌年、後醍醐帝が落命、南朝崩壊、室町幕府成立し足利家重代の太刀に。室町末期に将軍・義昭から信長〜秀吉へ、江戸期は徳川宗家より本阿弥家が預かっていた。
 作風は 地映りの立つ地鉄に丁子乱が沸づいた刃文。浅くのたれて上半に大丁子刃・足・葉・入り、下半は乱れ刃となり荒めの沸えが付く。表裏に腰刃を焼き、僅かに焼き落とす。帽子は乱れ込んで大丸ごころに返る。拵えは製作当時の皺革包みの太刀拵が付いている。

革包太刀拵[ 刀身 銘 国綱 (名物・鬼丸)]

 革包太刀( 鬼丸拵 御物 )南北朝時代。全長109.0cm(三尺六寸)。宮内庁。
 刀装形状、黒漆革包太刀。鞘、皺革包み。足、革包み。太鼓金は銅漆塗り。渡巻茶糸平巻。柄、革包茶糸平巻。目貫、丸に桐紋金容彫。
 北条時頼の佩刀・名物・鬼丸国綱の拵えであるが、制作年代は南北朝時代とみられる。塗り鞘の上から皺革を着せて渡巻を施し鍔も革で覆い、柄は革着の上を糸巻きとした拵え。

 元来、人は上層を願望し羨み自身も背伸をして、そこへ到達しようとする。そこに人間の進歩や向上があるのだが、とかく必死で浮上がろうとしてもがき、可能な限り上層階級の真似をする。言葉は「口に税金は掛らぬ」と云うが如く真似をし易い為、「おはす」言葉はいつしか一般語に下落をしてしまった。さすれば、それに代る敬語がなくてはならぬので、そこで現れたのが、「御座あり」でござる。御座は貴人の座席であり、貴人の座席が在ると云う事は、婉曲に貴人が「おわす」、居られる、という意味になる。従って「御座ある」が約まり「ござる」になる過程で、暫らくこれが「おわす」の代わりに用いられていたわけで、『太平記』(1371)「屋形の中に御座あるこそ、十善の君にていら給へ」、又、後記の狂言である『土佐鏡』には「代々御門に御座ある三種の神器」とあるのも、この境期の良い例でご猿。こうして、だんだんに徐々に「御座る言葉に」近づいて来た次第でご猿。
 さて問題は、いつ頃から「ござる」言葉になったのかでご猿が、前記の「御座ある」は文章ではあるが話し言葉では無いので、当時の古文書に記されている書物を探していたら、時代的にピッタリと符合をする、『耳底記』という三巻の小難しい歌論書に突き当たった。これは和歌の堂上家である、烏丸光広が二条系歌学の秘伝者である細川幽斎を尋ね、その秘伝を質した書物でござる。少々その中身を覗いてみると、斯くの如しでご猿。
 
 「歌の程拍子といふ事は、歌は音律にかけて披講するものなり。然らばなどか程拍子になからむ。世の常人の言語も、理は有りと雖も、程拍手わるければ理聞えず。仮初の文章なども斯くの如。まづ歌に三十一文字を用ゆる事も、程拍子によりての事なるが」と、秘伝書らしい調子にあふれている。

 その解釈は本職の歌学者に任せるが、ここで有益なのは公卿の光広が武家の幽斎にした四十項目に亘る質問に幽斎が口語調で答えている事である。これは一問一答形式なので、当時の口語調が読み取れるのである。その中で幽斎は公卿の光広に対し「そうでござある」「そうでござない」と答えていて、話し言葉でも未だ「ござる」とは云っていない事が判る。
 この『耳底記』の聞書は、慶長三年(1598)から七年の間に書かれたとあり、正に江戸初期の書物である。よって当時の江戸初期にはまだ「御座ある」と言っていたのでござる。また、かの有名な『雑兵物語』が出て来るが、よく知られている様にこの物語では頻繁に「ござる」が使われている。〜先陣での渡河の折り、馬の口取りの雑兵は轡を握って居ればかえって泳ぎようござる。馬は一度竿立ちになるものでござるが、泳がせると長持の様に水に浮くものでござる〜。と云う様な調子で三十人程の足軽の集団の功名談や失敗談等を日常使っている話し言葉で書かれていて、この飾らない処が大いなる評価される処でご猿。
 この『雑兵物語』の成立は、天和年間(1681〜84)と推定されており、『耳底記』からは八十年後である、と言う事はこの間に「御座ある」が詰まって「ござる」になったのでご猿。
 「島原の乱」が終り44年目、江戸も本格的な爛熟期に入る変り目に、「ござる」言葉が誕生したと云う事は意義深い事である。即ち、江戸期に入ってからの「ござる」言葉は、やや意味と使用階級の範囲を広げたと湯浅幸吉郎著『江戸言葉の研究』は書いている。即ち「ござる」は「御座ある」から出た言葉で「来る」「行く」「居る」の三通りの意味を持ち、第一の「来る」は浄瑠璃の『ひらがな盛衰記』の、「若君はどこにござる」がその適例なり。第二の「行く」の意味では、『いろは文庫』の「お前、この暮れには田舎にござって」が。第三の「居る」では、「八笑人」の「手づかえのこともござらば」を挙げることが出来る。
 これ等は、全て意味の違いがよく良く出ているのだが、ところがこの三つの意味とも、敬語の匂いが致すのでご猿。特に第一の「若君はどこにござる?」はその意味合いが強い。「ござる」の元祖「おはす」の権威が、江戸時代になっても未だやや残っていたのでご猿。
 ところで、「ござる」言葉の使用者は、武士と医者と大町人と老人であったが、例外的に盲人もOKであった。我国は古来より伝統的に盲人に対する扱いは他国に比べて優しい。このルーツは平安中期の仁和元年(885)に即位をされた、光孝天皇の皇子が盲目であった為、天皇が憐れみ、検校・別当・匂当・座頭の盲官を設け数々の保護を与えて来た伝統による。

 こうして、「ござる」言葉は江戸期には全盛をきわめたのでご猿。ところが「ござる」はそれだけでも丁寧語だが、その上に「ます」が付いて「ござります」と超丁寧語になった。元々、「ます」は「参らす」から来ていて、「見まいらす」から「見まっす」に変化して来て、「見ます」となったと、国語学者の金田一京助著の『日本の敬語』に出てご猿。
 又、この「ござります」なら特権的な響きはなく、誰が使っても可笑しくはござらん。「おはす」に始まる「ござる」言葉は、初めて民衆のものとなったのである。武家政権が倒れ明治維新に成ると、「ござります」は社会に氾濫し、政府の高官も車夫も商人も皆んな「そうでござりまする」「ござりません」と云う様になり、言葉の美意識も加味してまるで「ござります」の大安売りの始末でござつた。
 明治18年(1885)フランスの作家で海軍仕官のピェール・ロチは滞日中、鹿鳴館の夜会に招かれて、その時ひどくこの「ござりまする」が耳についたと書いている。その時の見聞録の『秋の日本』に「到る所で、デゴザリマスルが聞える、それがこの舞踏会の中で、軽やかな笑い声と一緒にざわめいて居る異様な迄に慇懃な会話の主調である」、際限の無い日本人のお辞儀に付合っているフランス士官の辟易としている様子が目に見える様でご猿。

 それでは最後に「ごさる」の集大成として、「ご猿」の群生図の珍しい鍔をご覧下さい。これが、世上にその名も高い「矢上の千匹猿」でご猿りまする。

(大)縦=七五ミリ 横=七一ミリ 厚さ=四ミリ
大小鐔 表銘=肥州矢上住 光広
裏銘=宣徳金以作之
(小)縦=七五ミリ 横=六九ミリ 厚さ=四ミリ

 千匹猿の図を以って有名な矢上光広の大小鍔の傑作でご猿。裏銘に「宣徳金以作之」とある様に真鍮を精巧にこなして緻密な彫りで、見ザル、言ワザル、聞カザルの三猿を始め、桃を抱える猿、首に縄をまわしてふざけている猿、冠をかむる猿や御幣を持つ猿の目には全て金象嵌を施しており、文字通りの力作の大小鍔でご猿。

群猿図縁頭 銘 肥州矢上住光広
鉄地 高彫 象嵌色絵

 矢上光広 矢上は長崎市内の地名であり、本姓は野田。同名が三代続くが初代は長之助、二代が初代の実弟で銀作、三代目は初代の実子で勇次郎。その内では二代の銀作が一番の達者でご猿。若い時に江戸に出て本所の南条家で修業するが、兄の死去により矢上に帰郷。
 矢上の鍔には「宣徳金」との添銘が多いが、これは今で言う真鍮の事で真鍮(黄銅)が中国で発明された時の年号が、宣徳年間(1426〜1435)であった為、宣徳と名付けられた。
 我国の年号では、応永33年(1426)から永享7年(1435)となり、室町幕府の六代となる足利義教将軍の時で、それから我国に伝わったのは30〜40年後の応仁元年(1467)でご猿。尚、関西地方では今でも「ヤカン」の事を「セントク」と呼ぶ地域がご猿るとの事でご猿る。

 平成の世に於いての、「ござる」言葉の効用としては、文章の一行の字数を合わせる場合、〜で御座る。〜でご猿。〜ござる。とすると使い勝手が良くピタリと納まる場合が多いと思いますぞぇ。


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