正に、光陰矢の如し〜、で1寸の光陰を軽んじておりましたら、夏休みもアッーと言う間も無くENDとなりましたので、又、元の仮面を覆って日本文化の継承と参りやしょう。
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菊桐紋蒔絵糸巻太刀拵え(東京国立博物館蔵) |
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糸巻太刀拵の名称 |
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霰打出し金熨斗付き打刀拵え
(黒田如水差料。重要文化財。福岡市博物館蔵) |
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打刀拵の名称 |
さて、以上の様に太刀を佩いたり、刀を差すには、刀鍛冶、金工、研師、鞘師、塗師、鮫皮屋、柄巻師、等の七職の手を煩わせる事になりますが、その中でも鍛冶(大・少)の次に重要なのが金工であります。普段あまり馴染みが無いのでこの機会に説明を致しましょう。
「金工」とは隣家のキンカン頭の金公と思われるでしょうが、左(サ)に否(アラズ)で元は古代中国の殷代の官名でご猿。金工・土工・石工・木工・獣工・草工の六工の内で金属具の製作者で鳥氏・築氏がこれに従事をした。官名から転じ金属から物を作る職人を云う様になった。古くは冶工(やこう)、金作者と書きカナダクミと読ませました。…ワルダクミとは一字違いでご猿。
我国にも有史以前より金工は居リましたが、個名が現われたのは室町中期の後藤祐乗(1439?1512)が書物に初見となります。故に祐乗を「金工の祖」とする事になつたのでご猿。
祐乗の生家は美濃の武家でしたが、世継ぎ争いで大変な苦労を致しますが、京都に出て室町幕府のお伽衆(同朋衆…茶坊主)となる。やがて祐乗は金工として天凛(てんりん)の才を発揮して、八代将軍・足利義政(東山殿)、の腰刀を本邦初となる金無垢(きんむく)で造り絶大な信用を得まして、室町(足利)・桃山(信長・秀吉)・江戸(徳川)期を通じて、時の権門の大判・小判等の発行や改鋳を一手に引き受け、絶大な権利・権力を掌握し、宗家の基を作る事に成功しました。
良く世間では「○○名物」と申しますが、本来「名物」とは東山殿(足利義政)が愛用した品々を指すのですが、これより「○○名物」と言う名称が一人歩きをする様になる訳です。
尚、後藤一門も刀剣の本阿弥家と同様に「鑑定折紙」を協議の上で発行を致しております。
当時の後藤家は刀装具の内でも、目貫・小柄(〜この場合の小柄は彫物の付く柄だけ)の二所(ふたところ)物(もの)や笄(こうがい)を合せた三所(みところ)物(もの)が多く、鍔(つば)や縁(ふち)や縁頭(ふちがしら)、鐺(こじり)等の古い物はあまり見ません。
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後藤祐乗の目貫と折紙 室町時代中期 |
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後藤光孝折紙
この様な図から「お笑いの図」に進化したかも? |
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弓懸の図二所物 銘 紋乗真 光昌(花押)
笄 赤銅地 魚子仕立て 高彫 ウットリ色絵 裏磨地
目貫 赤銅地 容彫 ウットリ色絵 陽根 |
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丸木橋図三所物 名物 |
「家彫」と町人の「町彫り」とが区別されたが、時は「元禄花見踊り」に代表される如く町人文化の勃興期のため富豪や大商人等が自由闊達な「町彫り」をバックアップしたので、後藤以外からも、吉岡印旛介、平田道仁、横谷宗眠、杉浦乗意、一宮長常、大月光興、等、百花繚乱の状態となりました。
江戸も中期になりますと今迄バラバラであった、帯刀のスタイルが「式正(しきじょう)の掟」として、制度化されまして、それ以降の幕臣は登城の際の刀装具は全て後藤の小道具となります。これを「家彫り」と称しまして、一般の「町彫り」の刀装具とは厳然と区別を致しました。為にその門葉は全国に広がり幾多の名人上手を輩出をしまして、幕末まで続いております。悼尾を飾ったのは、「後藤一乗」と言う、スーパー爺さんでござんす。
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一乗の筏流し鐔
(後藤法橋 一乗 花押) |
後藤一乗晩年の銅像 |
因みに後藤家の各代は〜、初代・祐乗(永享12年・1440・室町幕府六代将軍・足利義教) A 宗乗 B 乗真 C 光乗 D 徳乗 E 栄乗 F 顕乗(加賀後藤) G 即乗 H 程乗 I 兼乗
J 通乗 K 寿乗 L 延乗 M 桂乗 N 真乗 O 方乗 P 典乗 Q 常一。(昭和14年逝去)。
この内、初代・祐乗、四代・光乗、八代・即乗、の三工を後藤三作と称しております。尚、現在は金工は辞めておられますが、後藤家は二十代となり当主は後藤?剏(はじめ)(1923生)と申されて旧1高から東大法学部を出られた、大変に博学の方でご猿。
※ 来月号は「町彫り」の大家である、横谷宗眠が深川に縁がご猿に因って、その点を〜。
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波浪図鐔 烏銅磨地高彫色絵 後藤法橋一乗作 |
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