東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の94 「金工IV・宗E」

愛三木材(株)・名 倉 敬 世

 現在・少生の手許に「横谷宗E」と墨書で書かれた和綴じの黄表紙の本がございますが、この著者が小倉惣右衛門(おぐらそううえもん)と申して幕末から戦前にかけ、京橋の木挽町にて「網屋(あみや)」と言う
でかい刀屋の当主でその眼力と博識には定評があり数々の鑑定会の会主を務めた人ですが、
その網屋の惣右衛門さんが、この本の巻頭に「横谷宗Eは徳川幕府の最盛期の元禄時代に現れた彫金界の巨匠であり実に名人でした。その工作に対しては決して他の追従を許さず、
後人をして其の域に達する事は無理のみならず、その差異は雲泥万里の距離がございます。故に真贋の別は一目瞭然であり、斯くの如き技は人技を超越するのみならず、能く神域に入らねば到底不可能の事と思われます。」〜と云うが如き賛辞が延々と述べておりまして〜。
 次に、宗Eの家系、彫法の変遷、作風、先輩の評価や考察等を挙げており、その中に深川・木場との関わり合いのある個所が色濃くありますので、今月は先月号に続きこの辺のご紹介を致しましょう。

一輪牡丹の図目貫 無銘 横谷宗E作 金無垢 容彫 丸根 力金三角
 

 この世に宗Eの「一輪牡丹」と云う目貫は何点か存在するが、これらは在銘の物が多い。しかし、後藤家では三所物(みところもの)(小柄・笄・目貫(めぬき))の目貫に銘を切る事は極めて希でご猿。因って、むしろ銘が有る方が?(へん)なのでご猿。それ故、本来は後藤家の出である宗Eもそれに習い、
自然に踏襲した為であろうと考えられて、今も真偽の判定の場合は参考迄にされている。
※二所物=小柄、笄。昔は七子(ななこ)を撒かない物や石目地や磨地の物は祝いの席には遠慮した。
 さて、上図の目貫は何処から見ても宗Eの下絵張に載っている目貫とそっくりであり、
いかにも肉(しし)取りが優れ、押込も良く効いていて夏雄の一輪牡丹より勝れていると云われる。裏を返して見れば打ち出しが素晴らしく、括(くく)りだしの手法で目貫の袖が内側に入り込んで極端に丸くなっている。根(こん)は表裏とも丸根であるが力(ちから)金(かね)は三角で宗Eの掟に叶っている。
 この目貫こそが、銭に無理を言わせる紀文に剣突(けんつく)を食らわせ、逆に技量を認めて接した冬木屋に感激し、宗Eが生涯この他には作らなかったという、世に名高い一輪牡丹でご猿。

   
群盲撫象図(ぐんもうぶぞうず) 
盲人が象を撫で大きさを想う。
落雷図 
神社に雷神が落ち、神主がスタコラ。
   

 上図は共に英一蝶(はなぶさいっちょう)(多賀朝湖の最後の名前、彼は生涯に20回以上の改名をした)が、絹本の上に着色して描いた絵です。この様に金工も腕がいくら良くても下絵が良く無いとチト困る訳で、宗Eも絵心は有ってもモチ屋は餅屋と云う事なので、元は狩野派の絵師で腕は良いが遊びが過ぎて破門された。後に英一蝶と名乗る奇才と知り合い下絵を依頼する。彼が主催するサロンに入ったら、幕閣に居並ぶ大名から大身旗本、全国の経団連や商工会議所に加盟している長者番付けに常連の豪商が目白押しで、ゼネコン関係では冬木屋や紀文・奈良茂(奈良屋茂左衛門)も居り、俳諧や川柳・狂歌等の文化人も数多(あまた)集り、連日のドンチャン騒ぎに痺れていたら、一天俄かに掻き曇り、松平定信の「寛政改革」でバブルはブッ飛び、花の吉原は元より日本全国の花街はドシャ降りとなりぬねので、ゼニより尊い生命を毀損する者、数多なり。
 その余波を受けて英一蝶も芸と品行が災いをして、元禄11年(1698)三宅島に流罪となる。その流人生活は十二年の長きに及ぶが、皮肉にも流罪を命じた綱吉が宝永六年(1709)永眠。その折りの恩赦で放免となり、懐かしき深川の宜雲寺(白河二丁目七番十号)に辿り着いた。
※ 宜雲寺には戦前迄は一蝶の筆の絵画がゴマンと有ったので、一蝶寺とも呼ばれていたが関東大震災と20年の空襲で全て灰塵に帰してしまい、今は何もござらんとの事でご猿。

 尚、一蝶は初め狩野派を学んだ為に、本格的な日本画も上手(うまい)が一般の風俗画も得意で有り、特に浮世絵は当時の巨匠・岩佐又兵衛や菱川師宣に肩を並べる名人であったとの様でご猿。流刑中に生活の為や島人に頼まれ画いた絵を「島一蝶」と呼ばれ四点が有るが人気が高い。現在、確認されている物は、東京国立博物館や各地の美術館に40点ほど収まっているが、未だ発見される余地が有り、突然、出てくれば「お宝・発見!」となる事は間違い無い。

 一蝶の追放の理由は色々とあるが、(1)幕府の禁令(贅沢禁止令)に背き、吉原などでの乱行が目に余った。一蝶の宴会芸は幇間(たいこもち)が感心する程の洒脱(しゃだつ)で愉快な芸風であった様だが、綱吉の側室の兄弟を士分に取り立て、大名になった者共との過ぎた遊興が槍玉に上がった。(2)装剣具(鍔)に朝妻舟の図柄を用い、将軍・綱吉の揶揄をした。本来、朝妻舟とは琵琶湖の朝妻の渡しの遊女を「あたしあた浪、よせてはかへるなみ朝妻舟の浅ましやァ」と詠んだ、公卿の中院通勝の詞を一蝶は隆達節の歌詞と画題にした。初め小舟の中は留守模様(人物は描かず見る人に想像させる画法)としたが、後には烏帽子(えぼし)水干(すいかん)姿の白拍子を描いており、鍔には後者の艶姿を彫っている。他にも一蝶の描いた「百人上臈(じょうろう)」の中に、高位の人物と上臈が小船に乗った図があり、これは将軍・綱吉と愛妾・お伝の方を描いたものだとして、江戸中に流布され流罪の真相と言われたが、今となっては全てが泡沫(うたかた)の夢のまた夢でご猿。

 
朝妻舟図鍔 表裏
 

 この作者は宗Eと対比される江戸期の最後の名人「後藤法橋・一乗」でござるが、宗Eの鍔は元来が少なく、今回もナンボ探しても?で、時間切れにてギブアップ・ご面候。

     
赤銅、裏板金、七子地、高彫、色繪、二王圖小柄目貫、目貫鋼、色繪。 有馬家旧蔵天下一の名物として古來名高し、田中一賀金工鐔寄所載の逸品。 赤銅、裏板金、七子地、高彫、色繪、馬圓小柄。 下書帖四の冊に此下繪と同圓三あり、其内の一に赤銅裏四分一金削継の脇書あれば他に猶同圓の小柄あると思はれます。 蜂須賀家旧蔵の逸品 赤銅、裏板金、七子地、高彫、色繪三國誌圖小柄。 之れも亦宗E一代の傑作として古來描賞されし物であります。
     

四分一、片切彫、傘人物圖小柄。
下書帖四の冊に此下繪があります。
眞に英一蝶下書と肯かるる飄逸なる構圖頗る面白し。
寳暦四年の請取書、其時代既に宗E縁頭は金弐拾両の高値、如何に昔より珍重せられしかを知る事が出來ます参考書であります。
   

宗E筆文珠書幅
落款の宗E文字は全然小銘宗Eと一致する物、狩野流の書風見るべきであり殊に名手と肯かれます。
宗Eの餘技として名高き書幅
元禄丙子は九年にして二十七歳の書、花押の異なりたる處注意すべきであります、又賛の千山は紀伊國屋文左衛門の俳名と云はれて居ります。
   

宗E筆獅子書幅
達摩獅子の圖は金工作品に一致する處
横谷宗Eの書状(宮田尾野右衛門あて。「御手紙忝拝見仕候。御堅固被成御座、珍重二奉存候。拙者持病御尋、忝奉存候。一面日ハ別而不快ニ罷有、迷惑仕候。悴儀是又被掛御心、御尋忝候。少々快方ニ罷有、出歩仕候。一、古作笄目貫一覧仕候。書付之通相違無御座様ニ相見ヘ申候。大根之目貫、唯今ハ今少代も登り可申」)
   
 
蝙蝠笄(赤銅魚子地高彫)
〈銘 宗E(花押)〉「横谷宗E」「刀剣金工名作集」「日本刀大艦」「宗Eとその一門」「寒山刀剣講座」所載
赤銅魚子地、裏削金とした笄である。蝙蝠を赤銅で高彫にしており、夕闇に舞う蝙蝠の姿をよく現わしている。なおこの笄には現在宗E同作同図の小柄と目貫が附されている。
 
 
宗E作 争虎魚子地赤銅小柄(「宗E〈花押〉」東京国立博物館蔵)
 

 尚、喜多村節信(江戸の国学者・喜遊笑覧の著者)の『?庭雑録』に曰く、宗Eの姉は富豪の聞へありし冬木といえる商家へ嫁せり、宗Eこの冬木より借財せし事有りて、その償ひに彫刻をなして贈れり、毛彫り多かりしとぞ、故に後代までも、あまた所持ありしが、それも今は散失したりとなむ。と云う記述がご猿。
 又、宗Eは一蝶が八丈島に流罪されていた拾弐年の間、一蝶の母親(妙寿)の扶養をせり。
 その恩に報いる為、一蝶は用具の乏しい中で懸命に絵を画き、得た銭を母親に送り続けた。現在、その時の絵が八丈島・三宅島に残っており、これが「島一蝶」と言われて居る次第。

表面      右側

出典及び参考資料 この黄表紙の本の奥付は下記の通りであります。

著作者兼発行所  東京市京橋区木挽町一丁目四番地 小倉惣右衛門
印刷所      東京市深川区冬木町十番地    周文館
         (旧木材会館・隣接地)
         昭和七年七月二十二日 印刷   定価 二円五拾銭
               二十五日 発行


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