東京木材問屋協同組合


文苑 随想

材木屋とエコ 環境 省エネ(第2回)

東日本大震災 日本人の心を一つに
自信と勇気を奮い起こして 希望と大復興へ !!

(株)コバリン 奥澤 康文


【えらいことが・・・】 2011年3月11日(金)午後2時46分、宮城県沖で、マグニチュード(M)9.0の超巨大地震が発生した。(発生後25分以内の群発性余震の総エネルギー換算は、M9.4相当とされる。)7階建てビル3階で仕事中であった私は、幾度も押し寄せる揺れに、螺旋階段を転げ落ちそうになりながら壁を這うようにして、同僚たちと一緒に数回屋外へ避難した。テレビ映像には、漁船、車、人家、ビル、堤防等全てを押し流す津波の圧倒的な破壊力が実況された。暫く呆然とし現実が信じられなかった。

 地震と津波による死者・行方不明者は、2万8千人以上にのぼる。数十万人が被災・避難した。そして、ガソリン不足により物流が寸断されており、今なお、大震災の全容がつかみ切れていない。医療機関も麻痺し、寒さと飢えで亡くなる人もいる。絶望の淵に瀕している人には、どんな慰めの言葉もかけられない。大震災以降、同胞の犠牲・被災に嗚咽や慟哭しなかった日本人は皆無であろうと思われる。

 日本国内・近海では、過去千年遡上しても、前例や記録のない規模である。地震後、東北地方の陸地が太平洋側へ約4m移動し、約1m沈下した場所もあるという。津波が北上川を50kmの内陸までさかのぼった。そして、余震の続く今でも、数cmの移動は続いているという。いかに、激烈であったかを物語っている。M5以上の余震は300回を超えており、今なお終息の様子はみられない。

【帰宅難民】 関東圏でも直後から地下鉄や電車が止まり、帰宅難民が大量(数百万人?)に発生した。私は、幸い、同僚の車に便乗させてもらい、午後7時に会社を出て、大渋滞の末、大宮に到着したのが午前1時過ぎだった。社外では、10時間以上かけて徒歩で帰宅した人や、その晩は、会社へ泊った人も多かった。公共交通機関の麻痺は、数日続いた。現在(3月30日)でも、一部の鉄道間引きや運休の為、混雑が続いている。仮に、今回の地震が、あと3時間でも遅れて発生したら、トイレ難民も含め、更なる大混乱になっていたであろう。又、発生が週末直前であったことも救いであった。一度、大地震や大停電が発生すれば、首都機能が完全に麻痺することを多くの人が痛切に身に染みた。

【恐怖の放射能汚染】 福島第一原子力発電所への地震と津波による被災で、原子炉設備の爆発・火災等により、放射性物質汚染は、200km離れた東京まで広範囲に及んだ。消防隊、自衛隊、東電等の懸命な放水・復旧活動にも拘らず、依然、予断を許さない深刻な状況だ。世界中の関心が原発に集中している。現代社会の利便性や発展は、原発なしには語ることができない。安全に管理してゆけば、地球温暖化防止にも有効であると推進する国は後を絶たない。世界が戦慄する放射能の事故レベルは、暫定で6とされ、旧ソ連のチェルノブイリ(1986年)の7に次ぐ深刻さである。

 最悪の場合どうなるかとの疑問があるが、国内外への影響やパニックを恐れて、憶測の発表ができないのではないかと推測される。緊急時の管理体制の甘さが露呈し、所謂、人災の面も窺える。狭い日本の国土の一部が失われつつあると思うと悲しいものがある。特に、6基の原発の中で、被害が深刻なのが、1〜4号機である。巨大地震の直後、約15mの津波にも襲われ、数基同時の複合的な被害・損傷は、世界中でも例がないと報道されている。

 日本産の農産物や輸出品類が海外より忌避されており、これも前代未聞の窮地である。日本での国際イベントも中止が相次いでいる。本当に悔しいけど、世界中から袋叩きの様相だ。原発に対して、漠然とした不安を抱いていた人は多かったと思う。恥ずかしながら、私は原発の恩恵を全く意識したことはなかった。おぼろげな恐怖心が、突如として現実化した。

【地震の巣の上にある日本列島】 明治以降、国内最悪の津波被害である、1896年の明治三陸地震(M8.5:死者21,959人)に並ぶ甚大なものになっている。尚、その地震では、高さ38.2mの津波が確認されている。今回の巨大地震の前には、世界最大の人工防波堤も無力であった。深い入り江の為、津波が30m以上も駆け上った場所もあるという。哀しい哉、避難場所にも津波が押し寄せ逃げ場を失い、修羅場と化した。

【貞観大地震と大津波の再来か?】 専門家によれば、古い記録だが、平安時代初期、三陸沖で869年貞観(じょうがん)地震(M8.3〜8.6)と大津波が発生した。現在の状況は、その地震・噴火の続いた9世紀の日本に類似しているのではとのこと。そして、大地震の静穏期から活動期に入りつつあり、21世紀半ばに、M8前後の東南海、南海地震が予測されている。発生してほしくはないが、利便性と恐怖とが交錯する不気味な世紀となった。過去の地震記録を調べてみると、余りに多く悲惨な様子が目に浮かび、改めて恐怖心に襲われた。反面、祖先の生命力の逞しさには、脱帽せざるを得ない。
  ※1 『日本三代実録』によれば、5月26日夜であった為、「流光、昼のごとく隠映す」との発光現象まであったとのことで、今回と同様な巨大地震であったようだ。

【地震・津波・放射能の3重苦】 被災地の惨状は、目を覆うばかりである。地震の破壊力、津波の規模、そして、放射能汚染まで重なり、不安と悲しみの極みであり、大自然の前に無力感を味わった。まるで、原爆(1945年8月)でも投下されたかのような荒涼とした地獄絵図である。今尚、がれきの下に横たわる人のことを思うといたたまれない。また、これだけ深刻な放射能汚染は初めてであり、日本の将来を震撼させる一大事である。江東区深川で働く私は、前日、東京大空襲(1945年3月10日)のことを考えていた。その翌日、奇しくも巨大地震が発生し、歴史の悪戯ではないかと現実を疑った。

【経済への深刻な影響】 財政損害は、原発関連を除いて、16〜25兆円と言われ、年間のGDPは1%(6.5兆円)下がるだろうとの予測もある。桁が大きくてピンとこないが、企業の生産活動も麻痺しており甚大な被害だ。その為、企業の更なる海外移転が加速し、国内産業の空洞化に拍車がかかることが懸念される。また、新たな問題として、日本製部品への依存度が低下していくことが危惧される。放射能関係も含めると、太平洋戦争の敗戦以上の痛手であり覚悟が必要と予測する人もいるが、とにかく計り知れない恐ろしさがある。かつて、1923年の関東大震災後(M7.9)は、世界大恐慌へ突入していった。今回とは状況が全く異なるが、絶対にそうなって欲しくない。

【東京圏でも被害が】 震央から数百kmも離れた東京・関東圏でも、人命含め、倒壊や液状化等の大きな被害が出ており、私の居住するマンションでも被害がでている。計画停電や鉄道の間引き運転、食料品や生活用品全般が品薄となっている。3月末時点では、やや改善された感があるが、とても平常とは言えない。加えて、原発からの放射能汚染が拡大し、これも深刻な影響を見せている。過度に反応する必要はないと思われるが、衣食住のすべてを外部依存している社会構造では為すすべがない。3月23日、東京の水道水が放射能汚染され、乳幼児は控えるようにとの報道で一時は緊迫した。近隣の各地でも報告が相次ぎ、皆が右往左往している。また、農作物・酪農品の風評被害も蔓延している。

【昭和20年8月 敗戦と復興】 この悲劇を太平洋戦争の敗戦直後の状態へタイムスリップして、気持ちをもう一度引き締めて、国民総動員でこの国難を乗り切るしかないのではないか。相当な苦難と辛抱を伴うかもしれないが、日本人の勤勉さと英知を結集して乗り切るしかない。長い歴史を持つ日本が、世界の歴史から消え去ることを誰も望んではいないはずだ。1995年の阪神・淡路大震災(M7.3)の被害とは、既に次元も違いその比ではない。経済的に余力のない現在の日本では、とてつもない負担だ。この国に住む日本人としては、どこへも逃げ隠れできない空前絶後の非常事態である。

 3月11日をもって、「戦後」という言葉が終焉し、新たに、「震災後」が取って代わったと指摘する学者も出始めた。それだけ大きなピンチであり、復興の為には、社会・経済の未曾有の地殻変動を乗り越える為に、自信・勇気・希望を纏めるグランドデザインが必要なのだろう。

【猊鼻渓からの小さな希望の灯】 3月15日 晩、岩手の親戚から電話が入った。陸前高田から至近距離であるが、石灰岩の安定した地盤の為、被害が近隣の市町村と比べて軽微であったことを聞いて驚いた。3年前の岩手・宮城内陸地震(2008年)でも同様であったという。俄かに信じ難い話だが、不自由な状況下、被災者同士で物々交換等をしながら、忍耐強く懸命に生活する様を聞いて感動した。その従妹は、建設関係の仕事をしており、今後の過酷な環境の中で、復旧を支える谷間の百合として、公私とも力強く活躍してくれると確信している。

【計画停電による意外な気づき】 3月16日 夜、第3グループの私は、生涯で初めて体験した。昭和27年生まれの私としては、5〜6歳当時、寒村での日常習慣として、両親が毎晩8時頃までに電気を消していた記憶がある。停電当夜、いつもならネオンで眩しいはずの大宮駅東口繁華街が真っ暗闇となっていることに衝撃を受けた。暗闇の中を手探りで帰宅した私は、その晩、暗闇の中で、余震の心配をしながら、ロウソクを灯し、妻、娘と3人で身を寄せ合うようにして質素な夕食をとった。日頃、希薄になっている家族の絆も考えさせられた。被災地に比べ遥かに恵まれていると実感しつつ、その刹那、人生観を変えるようなひらめきを感じた。古い形容だが、将に、暗中に卒然として白刃を見る思いだった。

 日頃、物資にあふれた生活が当たり前となり、ありがたみも何も不感症となっていた。今回の計画停電や日常品の品切れによる不自由さで、もののありがたみに改めて気づき、感謝した人は多いのではないか。「もったいない」という言葉は、普段使われているが、既に、半分死語になっていたのではないか。

【冬来たりなば、春遠からじ】 発生から既に半月以上経過し、インフラは徐々に復旧してきている。しかし、3月30日現在、天候は真冬のような寒さで、被災地では小雪の舞う厳しい状況だ。東京でも、平年であれば、桜の花が爛漫の頃だ。寒い為、開花が遅れているが、桜も心なしか遠慮しているような気配を感じる。過酷な環境下で、我慢強い東北の人にエールを送る人は多い。原子炉の関係は、依然深刻な状況だ。毎朝、多くの人が暁に祈るような気持ちで見守っている。是非、危機的な状況を克服し、方向性の確立或いは小康状態へ向かって欲しい。

【関東大震災と後藤新平】 マスコミでは、救援・支援・復興がテーマとなってきた。日本は、今まで、幾度もの国難に直面してきたが、いずれも見事に克服してきた。しかし、放射能汚染は初めての難事業だ。東北復興庁の新設やグランドデザインの策定等が取りざたされている。関東大震災(1923年)の復興のリーダーシップを発揮した後藤新平にならえ等、色々な声が上がっている。今回は、復興から新たな成長には、5年、或いは10年以上かかるかもしれないが、皆が自分でできることから積極的・持続的に参画してゆくしかないであろう。
  ※2 約4週間後に、帝都復興院が設置され、総裁の後藤新平により、帝都復興計画が提案された。

【黙祷と不屈の縄文杉】 3月25日 会社の定例役員会で黙祷し、引き続き共済会の年次総会で全従業員も同様に執り行った。我々一人一人では、海辺の砂の一粒に過ぎないが、自分のできることから手掛け、まとまれば大きな力となる。節電、節水、物を大切にする自覚と漲る決意を心に刻んだ。これらを着実に継続してゆくことも、救援・復興に通じる。この半月程、日本人として、鮮烈に、自覚・反省を求められ、同時に、国の行く末迄を考えさせられたことは無かった。苦難と試練の時だが、「禍転じて福となす」為の工夫と努力が求められる。

 鹿児島県沖、遠い南海に浮かぶ屋久島に原生林がある。そこに、我々、木材問屋・林業関係者のシンボル、即ち、稀有な世界遺産でもあり、正に天を突く威容の「縄文杉」がある。世界的にも最古であり、樹齢は約5000年と言われ、永年の風雪と無数の天変地異に耐え、日本の歴史を縄文から現在まで忍耐強く見守ってきた。巨樹は圧倒的な生命力と存在感を示し、その御前では、「想定外」という言葉は軽々しく言えない。今後も期待を込めて見守ってくれるだろう。

【スポーツによる激励の輪が拡がる】 国内外から幅広い救援の輪が広がっていることは、胸打たれるものがある。とりわけ、スポーツ界、芸能界等から支援や励ましの活動が広がっている。3月29日晩、サッカー選手(日本代表とJリーグ選抜)達によるチャリティー試合があり、大変に盛り上がって勇気を得た人も多かったはずだ。日本国内最年長の44歳の三浦和良が活躍し、後半に1点入れたことは特に中高年には大いに励みになった。彼等の熱き思いが被災地に届き、そして、復興への原動力となればと思う。団結、努力、創意工夫の時でもある。カズのゴールから力をもらい、翌朝3時に起床し、この雑文を一気に書き終えた。偶然にも私の誕生日だった。「一寸の光陰軽んずべからず」と頭を垂れ、被災地へ思いを馳せた。

【JR大宮駅からも力強いエール上がる】 東北の表玄関である大宮駅構内の広場には、自信と勇気を鼓舞する「元気を出そう 日本!」の大きな垂れ幕が張り出された。大宮・浦和は、サッカーJリーグのサポーターが多いので有名だ。多少の異論はあるかもしれないが、元気のない日本に「喝」(かつ)を入れ、今、日本人全員がサポーターとなる時が来たと確信する。被災した原発の早期復旧・終息を祈りつつ、森羅万象に改めて思いを寄せ、こうして生きていられることに反省と感謝をし、自分のできることから少しづつやってゆきたい。

 弊社の千葉社長も宮城県の出身だ。社内には東北出身者も多い。皆、黙しているが、深い悲しみにあることは、想像に難くない。この拙文を寄稿する事で、鎮魂と細やかな慰めになれば幸甚でございます。

 最後に、この度の大震災で犠牲になった方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。そして、被災された方々に謹んで震災のお見舞いを申し上げます。

 がんばれ日本!! 負けるな日本!!
  日本は強い国 険しく、長い道のりだが、みんなでやれば必ず乗り越えられる!!

  History Repeats Itself.これは、「歴史は繰り返す」を意味する。日本の国境線が、俄かに、きな臭い状態となってきた。そこに、3月11日の巨大地震が発生した。日本の災害を喝采する海外の輩もあるようだが、過半数はそうではないと信じるしかない。原発事故から、昨今の政治・経済の混乱や低迷の恥部が、改めて、浮き彫りになった感がある。世界中の関心と同情を集める中で、これを逆手に取り、不法な国境線の侵犯が起きないことを祈るばかりである。そして、同情は淡く一過性であり、その感情は移ろい易いことを忘れてはならない。又、これが大震災後3週間の雑感であり、空気、水、安全、電気、食料等もいかに脆弱なものかを真摯に考えさせられた。
 

平成23年3月30日(水) 記

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2011