東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(65)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 東日本大震災が起って、2ヶ月が経過しようとしておりますが、復旧の目途を立てるどころか、先ず犠牲者の追悼、行方不明者の捜索、被災者の収容、仮設住宅の建設と続き、これに原発の問題が加わって、三重苦となり、風評、政治対応の稚拙により日本列島を恐怖に陥れています。このようなとき、何か自分に出来ることはないかと思案しても、何も出来ないもどかしさを感じている毎日であります。先月号で登場頂いたY博士によれば、「色々批評や糾弾もあるだろうが、兎に角、先ず冷やすことだ」ということにつきるのではないか。数日前のニュースによれば、作業員の決死的な行動によって、遅ればせながら少しづつ収束に向って進んでいるのではないでしょうか。
 3月26日予定の東海道ネットワークの会の例会は中止となりましたが、発足10周年事業として、東海道宿場ラリーが企画されました。これは10月30日から11月23日まで25日間かけて毎日会員が入れ替り立ち替りいつも誰かが毎日歩いて、日本橋から京を目指すイベントで、「災害復興に幹線道路の確保は必要不可欠です。東海道に道の原点を思い、困難の災害の復興と被災者の安寧を祈念しながら歩きましょう」との力強いメッセージに力を得て、70才を過ぎた私も何回か都合をつけて参加しようと決意しました。
 今年のゴールデンウィークは4/29-5/8まで10日間ありました。今回は、塩尻に住んでいる長男を誘って、穂高温泉郷にあるダイヤモンドクラブに二泊の予約をし、そこを足掛りにまわりの名所旧蹟を巡りました。私自身との関わりも含めて、松本城、黒四ダム、中山道奈良井宿を探訪します。
 松本城は16年前、中山道を歩いた折に訪ねて以来でありました。JR中央線は塩尻から岐えて松本方面がメインとなり、名古屋方面はローカル線の感があり、無人駅もかなりあります。従って松本で宿をとり、ここを拠点として朝早く出掛けるのが便利で、夜遅くライトアップされた鳥城の雄姿は一度拝んではおりましたが、昼間登城するのは初体験でありました。当日はゴールデンウィークで特別に無料公開されておりましたので、観光客が全国から集って来て、庭に整列して順番を待ち、一度に50人ずつ入城し、それでも城内は登る人下りる人で大賑わいでした。日本国中に多くの城がある中で、松本城、犬山城、姫路城、彦根城の4城だけが国宝に指定されています。松本城の創設は、戦国時代の永正年間、信濃の守護小笠原氏によってなされました。その後石川数正氏が秀吉の命で城主となり、徳川時代は何代か城主が代わり、幕末の嘉永年間は、松平(戸田)丹波守光則氏が統治しております。幕末に全国で250以上あった城は、明治維新と廃藩置県によって大半が毀されましたが、松本城はその美しい雄姿と関係者の熱心な運動によって残され、しかも国宝に指定されました。創建当時は内掘、外掘に囲まれ、戦国時代から重要な地位を占めておりました。五層六階の天守閣からは十里四方の眺望が出来、晴れた日には、金華山に信長が建てた岐阜城まで百坪以上も望むことが出来ます。高さ約30米ですが、柱の太さは50糎角以上の栂材で、梁背は70糎、壁厚は弾丸を防ぐ為50糎、四方に鉄砲で敵をねらう鉄砲間が多数ヶ所開いており、敵が攀じ登って来ると石を落して撃退する石落しもある。重厚な材料を使ってはいるが、階段の勾配は上階へ行く程急になり、4階から5階は60度以上あります。柱は下層は太く、上層は細い。このようなぎりぎりの計算により外観は屋根に鯱を頂き、上へ行く程反り上った曲線が全体を美しく見せています。外壁は黒漆で仕上げ、長期保存や防水効果を出しています。大盛況の中を長時間かけて巡って出て来ますと、初夏の風は心地良く、お城に合わせた黒装束の女忍者が、小刀を携え両足を踏ん張って立ち愛嬌を振りまいていました。
 2日目は黒四ダムの探訪です。大震災で思い出しましたが、大学の土木工学科を志しました時、教授の面接で志望動機を訊かれ、「私は災害に弱い国土を強化する仕事に就きたいです」と答えました。我ながら格好よいことを云ったものだと思いましたが、本音は大自然を相手にダムを作るような大きな仕事に憧れておりました。ゼネコンに入社を希望して採用され、33人の仲間と全国の工事現場を見て歩く研修期間が1ヶ月ありました。都内の地下鉄工事、御母衣ダム、琵琶湖大橋等を巡り、黒四ダムは完成間近でしたが、やたらに隧道の中を地下足袋、ヘルメット姿で長い距離を歩いて案内してもらいました。38年に入社して、9月に184米の日本一の黒部ダムが完成したことをNHKのニュースで知りました。あれから50年近く、完成した黒四ダムを見るのは初めてでありました。昭和31年着工、7年の歳月と延べ1千万人の労働力を駆使し、高度成長期の幕明けと同時に完成した黒四ダムは日本産業界の花形でありました。日本列島を横断しているフォッサ・マグナと云う地殻変動によって岩が粉々になっている幅80米の破砕帯がありました。黒四ダムが建設予定の黒部狭谷へ行くにはアルプス山脈のどてっ腹にトンネルを掘って輸送路を作らなければなりません。隧道工事はいくら掘っても崩れる破砕帯と摂氏4度の湧水に遭いかなり難儀しました。7ヶ月かけて別のルートで水抜きトンネルを掘り、やっと水が止ってトンネルが完成し、以後工事は順調に進みました。それ以後国内に大きなダム工事はなく、高速道路、新幹線、地下鉄工事等が大きな比重を占めるようになりました。
 穂高温泉郷に、早朝迎えの車が来て、約一時間、未だ雪が残っている林の中を抜けて標高1,433米の扇沢に着きました。ここから先は自動車は入れず、標高2,678米の赤沢岳の中に工事用に掘られた隧道の中を環境に配慮して電力で動くトロリーバスで黒部ダムに向います。途中幅80米の破砕帯の位置が青い電灯で表示されており、その先、長野、富山の県境を越えてダムサイトに出ます。ダムが出来るまでは人跡未踏であった立山連峰が雪を頂いており、黒四ダムの美しいアーチが全容を現しました。幅約20米のアーチの上を歩き、向う側からトンネルで黒部平へ行くケーブルカーで急勾配を上って行きますと標高1,455米の黒部平へ出ます。ここから標高2,316米の大観峰へ向かうロープウェイが見え、標高3,015米の立山の頂上が手に取るように見ることが出来ます。ロープウェイは輸送力に限りがあり、待機客が多くて乗るのを断念しましたが、改めてまた来ようと思いました。立山の中をトロリーバスで室堂に出て、天狗平、弥陀ケ原、美女平を経て立山駅までケーブルカーで下りるルートを立山黒部アルペンルートと云います。前日の夜まで、黒四へ行くか、上高地にするかで、長男と妻は私と二対一でもめて居りましたが、二人は強引に主張する私に折れてよかったと云っておりました。
 黒部秘境に巨大な建造物を造り、環境に配慮された関係者の努力には頭が下る思いを致しますが、一時は産業界の急先鋒と云われたダムは、火力発電がとって代り、再に低額投資でCO2排出が少ない原子力発電がかなり建設されましたが、今回の震災による原発の事故で日本のエネルギー問題は大きな曲がり角に来ており、子供達の将来のことを思うと非常に複雑な気持ちになりました。
 3日目は、今NHK朝の連続ドラマ「おひさま」の撮影地で脚光を浴びている奈良井宿の散策です。今から16年前の旅日記を読み返してみますと、平成7年11月3日の前の晩遅く、松本に宿をとり、洗馬からスタートして、その日の夜、奈良井宿に投宿した記録がありました。洗馬から暫く歩いて行きますと、須原宿の実家に92才の母親の誕生祝に御夫婦で出掛ける途中の大学の同級生、長岡氏が追い越して行き、停車した車から降りて両手を挙げて出迎えてくれる姿に出合いました。翌日は皇女和宮のお輿入れの行列が再現されるそうです。贄川が木曽十一宿の入口で、奈良井、薮原、宮ノ越、福島、上松、須原、野尻、三留野、妻籠、馬籠と続きます。長岡氏の実家は須原宿で代々お茶の間屋を勤めておられたそうです。17年11月19日、無理を云って泊めて頂きました。
 「おひさま」の放映でも語られているように、木曽の暖かい人情は何百年も前から続いております。宿場当時から、奈良井千軒と云って、狭い地域に千軒の家が軒を連ねて大変賑っていたようです。今では、文部省選定重要伝統的建物保存地区に指定され、電柱は建物の後ろに隠し、すべて当時の建て方で造られ、保存され、今でも特産の工芸品の販売、五平餅や信州そばの食堂、旅館等々の建物が連なり、その長さは7百米あります。17年前泊った「かとう」と云う旅籠や松阪屋という屋号の塗り櫛総本家もまた健在で繁盛しておりました。ただ困ったことには、「おひさま」人気で連休に自家用車が殺到して、町営駐車場は満杯。駐めるのに苦労しました。食事をするにも大混雑で、駅前のおそばやさんも順番を待つ家族連れで溢れておりました。それを除けば大変快適な旅で、遥か江戸時代にタイムトリップし、帰りは長男が住む塩尻からスーパーあずさ22号で、新宿まで僅か2時間半で、日常の世界に戻って参りました。


 



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