『歴史探訪』(66)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
東日本大震災と原発事故について
「原発というものは、行政が年間8千億円以上もの補助金を大盤振る舞いして多数の天下りを送り込み、電力会社は莫大な宣伝費を使って『安い、安全、地球に優しい』というCMをマスコミに発注して手なずけ、都合の良い論文を書いてくれる御用学者に法外な資金提供をして勢力を拡大させることによって存在するシステムなのです。日本のような設置不適当国に原発が増え続けたのは、莫大な利権を生むからです」。
以上は、最近読んだ小説『富士覚醒』のあとがきから引用しました。著者 石黒耀氏は、2002年発表した『死都日本』、2004年の『震災列島』で、炉心溶融事故を予告し、核燃料貯蔵プールの危険性について警告しております。原発の関係者、政府要人、省庁の役人が読んでいれば、事故を防ぐことが出来たかどうかは分かりませんが、石黒氏は今回の福島第一原発事故は素人にも想定できるレベルであると指摘し、日本の科学界をリードする立場の学者達が、これを想定外と決めつけた怠慢な態度に痛烈な批判を浴びせています。
起こったことを責めてもどうにもなりませんが、日本の威信と技術にかけて、収束に向かって邁進して下さい。
5月21日に東海道ネットワークの会で「江戸?現代への小さな船旅」と銘打った企画があり、30名の仲間と完成したばかりの日本橋船着場から乗船しました。今回は江戸時代の面影を求めて船から眺める風景を探訪します。コースは日本橋川から神田川、隅田川、小名木川を経て、扇橋閘門の先で折り返し、再び隅田川へ出て下り、中央大橋をくぐり、亀島川を通って日本橋に戻ります。
船着場を出ますと西河岸橋をくぐった先には一石橋があります。橋の北に金座頭の後藤庄三郎家、南に呉服頭の後藤縫殿助の屋敷があって、二つのゴトウ(五斗)を合わせて一石と名付けました。次は三つの常盤橋をくぐります。常盤橋は石造りで家康の入府直後に架けられました。新常盤橋は明治後期、市電を通す為架けられました。今は市電はなく、JRが走っています。常盤橋は最も新しく、それでも大正7年架橋ですから93年前になります。袂(たもと)に金座がありました。今の日本銀行です。船はゆっくりと首都高速の支柱の間を縫って進みます。鎌倉橋をくぐりますが、江戸時代はここに魚市場がありました。江戸城築城に際して鎌倉から運んできた石材を陸揚げした鎌倉河岸に因んで名付けられました。次は神田橋です。錦橋の由来は、近くに一色の姓を持つ旗本が二家あり、合わせて二色で錦としゃれたものです。地上に気象庁の大きな建物が見えます。隣に乗り合わせた女性がこの辺りに昔勤めたオフィスがあると仰って懐しがっておられました。共立女子大もあります。前首相の曾祖母鳩山春子氏や永井荷風の父久一郎氏ら34名の発起人が共同で設立し共立女子学園と名付けられました。次は一ツ橋をくぐります。家康が入府した頃、一本の丸木橋が渡されていた為、それが橋名となり、地名にもなりました。その後一ツ橋御門が建てられ、八代将軍吉宗は子の宗尹(むねただ)にこの地を与えて一橋家を名乗らせました。この辺りから左側に見える石垣は、江戸城普請に際し全国から大名が協力し、築かれた「打ち込みはぎ様式」といわれる古い積み方によってなされました。石に刻まれたマークは石工が他家の石と区別する為につけたものです。少し先に雉子橋があります。江戸時代に雉子橋御門があったので、警備が厳しく、川柳に「雉子橋でけんもほろろに叱られる」と詠まれています。橋名は将軍家が朝鮮使節をもてなす為にキジを囲っていた小屋がこの辺りにあったことに由来します。この先、宝田橋、俎(マナイタ)橋、南堀留橋、堀留橋、新川橋、あいあい橋、三崎橋を経て神田川に出ます。船は直角に右折し中央線に沿って進みます。明治22年、甲武鉄道として発足し、新宿?立川間を走っていましたが、後に甲府?御茶ノ水まで延伸し、明治39年国有化されて中央線となりました。水道橋駅の手前、東京ドームを左手に見て後楽橋があります。由来は近くに小石川水戸家上屋敷があり、庭を整備して後楽園と名付けた為です。少し先に神田上水の掛樋が渡された跡があり、水道橋と云われ、駅名にもなりました。ここから先は御茶ノ水渓谷と云って素晴らしい眺めが続きます。御茶ノ水橋の先に美しいアーチの聖(ひじり)橋があります。これは湯島聖堂と聖ニコライ堂の2つの聖を結ぶことに由来します。
神田川は右に中央線、上に地下鉄丸の内線が交差し、前方に昌平橋、その上にJR松住町架道橋の雄大な眺めが展開します。昌平橋は、湯島聖堂が後に旗本の子弟を教育する昌平校を併設したことに由来します。その先万世橋は明治17年に架けられました。これに因んで甲武鉄道の始発駅は万世橋駅となりました。辰野金吾設計の赤レンガ張りの美しい建物は今でも通る人の目を楽しませてくれます。和泉橋の由来は近くに藤堂和泉守の屋敷があったことによります。あと1qで隅田川に出ます。この間三つの倉があったことから美倉橋、北岸に酒井左衛門尉の屋敷があったので左衛門橋、浅草橋から柳橋の間は船宿が軒を連ねており、両岸に屋形船、釣船がずらりと繋留されています。
いよいよ隅田川に出ますが、川幅は広く、成る程昔は大川と呼ばれていた理由(わ け)が分かりました。下流に向かい、両国橋、新大橋を経て、昔芭蕉庵、今芭蕉記念館の脇を通って小名木川に入ります。隅田川の左岸は地下水を汲み上げた為、地盤が低く、パナマ運河のように閘門の開閉によって水位を調節して東へ向かいます。徳川家康の命で、行徳から塩や野菜を運ぶ為に小名木四郎兵衛が開削しました。萬年橋、高橋、東深川橋、大富橋を過ぎますと、小名木川は大津川と十字状に交差し、左土手に猿江舟改番所がありました。東から来た舟はここで積荷をチェックされ江戸市中に入りました。扇橋閘門を通過し、しばらく行ってから折り返して再び隅田川へ戻ります。下って清洲橋、隅田川大橋、永代橋を経て隅田川は二又に岐(わか)れます。ここから眺める中洲は大川端リバーシティと云って超高層住宅が林立しています。佃島の再開発によって1993年中央大橋が架けられました。2本の支柱が力強く踏んばって立ち、太いワイヤーで橋桁を吊り、その姿は帆船をイメージして架けられました。中央上流側にパリ市から贈られた「メッセンジャーの像」が飾られています。橋をくぐり霊岸島水位観測所を右折すると亀島川に入り、南高橋、亀島橋、新亀島橋を経て日本橋川に戻りますが、江戸時代は日本橋川と平行して川村瑞賢が開削した新川がありました。昭和23年埋め立てられて今は道路になっています。
茅場橋をくぐり、鎧橋、江戸橋を経て、スタート地点、日本橋船着場に戻って参りました。この間僅か3時間足らずでしたが、短い割りには、遙か400年前の世界を探訪し、中味の濃い船旅でありました。 |