東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(70)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 9月は、夏が未だ居座って猛暑が続き、昼は蝉、夜は鈴虫、こおろぎが鳴くのも異常気象の所為でしょうか。流石にお彼岸を過ぎますと、朝夕は凌ぎ易くなりました。
 夏ばてで崩した体調はようやく回復しましたが、決して無理はせず、10月30日から始まる東海道ネットワークの会宿場ラリーに向けて心身共に準備怠りなく、日本橋ー川崎間17粁を踏破することが出来れば、今後年と共に衰えて行く体力、気力も少しは維持出来るのではないかと思うこの頃であります。
 東海道ネットワークの会も創立20年となり、新体制になって10年を記念して、会員の投稿による文集と編集委員の汗と知恵の凝縮による素晴らしい80頁の労作が届きました。
 その第三部、江戸川柳、東海道の旅二百首の中から9首をとり上げ、感想を述べ歴史探訪をします。
 品川宿『品川の客ににんべんのあるとなし』江戸幕府は、品川、新宿、千住、板橋を遊興の地と定め、飯盛女を置く許可を与えました。品川は東海道を通行する旅人が多く、大名屋敷の侍や寺の僧侶も多数来て賑いました。幕府は品川宿に800名の女郎を置く許可を与えましたが、とてもそれでは足りず、1,600名を数えたこともありました。規定を越えて女郎を置く場合は、女性ではなく人足等男として登録しました。今でも芸者の源氏名を駒吉、勝太郎等と名付けるのはその名残りであります。
 ここで脱線、『読売の助っ人さんずいあるとなし』解説は後程。
 箱根宿『うつくしい髪三日目にほどかれる』関所では「入鉄砲に出女」を厳しく取締りました。入鉄砲とは武器を持って幕府に反抗する輩。出女とは江戸在勤の大名の妻女等が江戸から逃亡することで、特に女性は衣服や結った髪まで改め厳しく取締ったという。
 吉原宿『しらはたと思ひ羽音に平家逃げ』富士川の西に陣を敷いていた平家軍は鳥が一斉に飛び立つ音を源氏の襲来と勘違いして逃げ、源氏方は労せずして大勝利を納めた。
 原宿『三宿つづく川の駅原の駅』川の駅は品川、川崎、神奈川。原の駅は原、吉原、蒲原。
 日坂宿『夜はなきひるは旅人のじゃまに成』安藤廣重作日坂宿の浮世絵は道の真中に大きな石があり、夜になると泣くという伝説がありました。大正時代、この石を模した張り子が造られ東京の百貨店で展示した処、大変な評判で、中に赤子の泣声を出す装置が仕組まれていたそうです。


日坂 にっさか(静岡県掛川市)


 白須賀宿『雲助が海を跨げる汐見坂』新居宿を過ぎて西へ向かいますと、東海道は上り坂になり、汐見坂という見晴らしの良い場所があり、旅人が茶屋で休んでいると通過する駕籠かきの股間から海が見えたそうです。


白須賀 しらすか
(静岡県湖西(こさい)市)


 岡崎宿『蜂が来て猿をつっ突く橋の上』大閣秀吉が少年時代、日吉丸と云った頃、流浪の旅に出て矢作橋の上で寝ておりましたら蜂須賀小六ら野武士の一行が通りかかり、槍で突き、起した処、日吉丸も怯まず応じて、これが縁で主徒関係になりました。今でも橋の袂に、日吉丸と小六の太刀まわりが石像となって飾ってありますが、これは後の創作で当時矢作橋は架けられていなかったようです。
 宮宿『熱田とはいへど氷の御神体』熱田神宮は、倭建命(やまとたけるのみこと)が東征の述上、焼津で火をかけて攻められたが、剣を抜いて草を薙ぎ倒して脱出し、その剣を天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と称し御神体として納められています。今でも天皇が即位するときの儀式に使う、八咫鏡(やたのかがみ)、八坂瓊勾玉(やさかにのまがたま)と共に三種の神器と云われています。抜けば玉散る氷の刃(やいば)と云われるが地名は熱田で、氷の刃という対照が面白い。
 坂之下宿『山の名になるとは知らず筆を捨て』坂之下から土山へ上る途中、岩根山のあまりの絶景に絵師が描くのをあきらめて筆を捨てたという故事により俗称筆捨山と云われるようになりました。


坂ノ下 さかのした(三重県亀山市)


 『読売の……』の解説、読売とはジャイアンツ、さんずいありは江藤、さんずいなしは工藤。

 




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