『歴史探訪』(71)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
いよいよ、東海道ネットワークの会主催により、東海道宿場ラリーが始まりました。これは、日本橋から京都まで25日間かけて会員が中心になって雨の日も風の日も負けずに歩き繋ぐイベントで、誰でも参加することが出来ます。初日10月30日は天候にも恵まれ、日本橋滝の広場には、多くの関係者が集まって、大変な賑いです。折りしも、向い側の一画では、日本橋架替え百周年と銘打って、街ぐるみでイベント開始を知らせる太鼓の音が響いています。
午前9時スタート、銀座通りは時代の尖端を行っており、外資系のファッションの店舗がかなり出店しています。途中行列を見かけましたので「最後尾」の標識を持っている人に聞きますと、これはアップル社のiPhone売り出しに集まった人の列でありました。
今回は会員と共に歩きながら歴史探訪をします。浜松町駅の先に、「西郷隆盛、勝海舟会見の地」の石碑があります。薩摩屋敷で、江戸攻撃の総督 西郷隆盛と幕府陸軍総裁 勝海舟が会見し、江戸の町は戦火を免れました。若しこの会見が不調に終っていたら、明治維新は実現したでしょうか。日本は欧米の植民地になり、近代化は大きく遅れていたかも知れません。その意味で、この地の会見は歴史を大きく動かす出来事でありました。
お江戸日本橋七つ立ち、日本橋を夜明け前に出立した旅人は、約2時間歩いて高輪に着きますと夜が明けて、提灯を消すと大木戸が開きます。見送りの人はここまでですが、約20名のラリー一行は、八ツ山橋で盛大な出迎えを受けて品川宿に入ります。
土蔵相模跡、品川宿きっての妓楼であった旅籠の近くに、品川宿まちおこしの施設があって、お茶の接待を受け、休憩させて頂いた後、12時30分に西へ向います。
私が1994年、一念発起して東海道中を始めた初日の終着地は、鈴ヶ森刑場跡でありました。今日は大勢の仲間が居たことと、先達者坂井隊長の素晴らしいリーダーシップに助けられて何とか全行程を踏破することが出来ました。昼過ぎに三名の会員が途中リタイアしましたが、これは予定の行動であり、逆に品川駅で離脱する予定であった女性のメンバーは頑張って最後まで歩きました。
街道沿い京浜急行電鉄の梅屋敷という駅があります。これは江戸時代、道中常備薬で栄えた「和中散」売薬所の主人(梅路翁)が梅や草木を植えて開いた庭園が今でも公園として通る人が寄って憩む名所となっていることから後に敷設された鉄道の駅名として往時を偲ぶ縁(よすが)となっております。ここが今日最後の休憩地で、一行は六郷橋に向かいます。
六郷川(今の多摩川)を渡りますと神奈川県に入ります。江戸時代中期、川崎宿は相次ぐ大地震や富士山噴火の降砂被害等により窮乏しておりました。田中本陣当主田中丘隅は六郷橋の流失を機に六郷川の渡し場経営を幕府に願い出て取得し、渡し場設置以後、宿場は徐々に発展して行きました。渡し場近くには、川崎宿の名物、奈良茶飯で有名な「茶店万年屋」があり、『江戸名所図会』にも繁盛していた様子が伺えます。
今日の最終地、稲毛神社へ向って川崎駅前目抜通りを通ります。小雨降り頻る大通りはハロウィンパーティの仮装行列で大賑いです。
一行の約半数の人は川崎に宿をとって、明日は戸塚宿まで23.4粁の長丁場を行きます。
11月3日、宿場ラリーは4日間で小田原宿まで来ました。集合場所、小田原宿なりわい交流館は小田原駅から国道一号線方面に歩き、1粁足らずの位置にあります。今日は総勢13名、うち4名は新聞でこのイベントを知り、参加した人達です。宿場ラリーは会員でなくても、受付で会発行の通行手形を千円で購入すれば何回でも参加することができます。企画によって人が集まり、人の輪が広がって行くのは素晴らしいことです。大方の予想では、初日と最終日が最も参加者が多いとのことですが、昨日は歩いた人がたったの4人という淋しい旅であったようです。私も小田原から歩いたのは2回目ですが、新しい発見もかなりありました。11月3日は恒例の大名行列があります。従って幹線道路は9時から11時まで車の通行はもとより人の歩行も禁止になります。先達の坂井隊長は、若し大名行列に遭遇した場合は別の抜け道を考えておられたようです。
以前白須賀宿を歩いた時、「大名行列が行き交う場合、格下の大名は駕籠を降りて、格上の大名行列に道を譲り敬意を表さなければならない」という仕来りがあったことを知りました。白須賀宿では、曲尺手(かねんで)という道路計画により、お互いの行列がかち合わない工夫をしました。この手法によって時間のロスを未然に防ぎました。これも先頭を行く侍の機転によって初めて可能になることで、今日の坂井隊長の差配は、江戸時代の行列の先導者を彷彿させる見事なものでありました。
三枚橋を左折し、旧道に入ります。コンビニに寄って、弁当と水を買い、トイレ休憩の後、旧道は徐々に上り勾配になり、今日初めての石畳道に入ります。旧道から遙か下方、小学校の校庭で大名行列が隊列を整えて出発の準備をしている様子が見えます。高速箱根新道の須雲インター入口の標識を過ぎてしばらく行くと、鎖雲寺から霊泉の滝が流れており、淨瑠璃「箱根霊験躄仇討」のモデル、初花・勝五郎の墓の脇で昼食となりました。
午後は鎖雲寺の先から石畳道に入り「女転し坂」を上ると畑宿に出ます。畑宿は寄木細工の里として知られていますが、日本橋から23番目、畑宿の一里塚は石畳道の両側に当時のままの姿で残っている貴重な歴史遺産です。
この先は七曲りと云って、自動車が七回曲って行かないと上れない急勾配を歩行者は石段で一気に上がらなければなりません。西海子坂、橿の木坂、猿滑り坂が続いており、東海道中一番の難所と云われています。女転し坂は、昔乗馬の女の旅人が転落して亡くなったことから命名された悲しい坂ですが、橿の木坂(かしのきざか)はあまりの急坂に旅人はドングリのような大粒の涙や汗を流したことによりますが、これはユーモア溢れる命名です。上りはここからゆるやかになり、江戸時代から続いているという甘酒茶屋があります。今日最後の休憩地ですが、汗をかいた後でいただく甘酒のなんとうまいこと。
元禄14年12月14日、草木も眠る丑三つどき、本所松阪町吉良邸の門前に響く山鹿流陣太鼓と云えば、赤穂浪士の討ち入りです。その浪士の一人神崎与五郎が、茶屋の前で馬喰の丑五郎から言いがかりをつけられ詫び証文を書いたという故事が庭の立て札に書いてありましたが、若しその頃から茶屋があったとすれば、三百年以上も続いていたことになります。ここから少し上って、お玉坂、白水坂、天ヶ岩坂を越えると、「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」の歌碑があります。最後の権現坂は下り坂で芦ノ湖が見えて来ますと今日のゴールは間近です。湖畔の樹齢300年以上の杉並木を通り、新装なった箱根関所も無事通過、楽しい苦業も全員元気で終え、お開きとなりました。
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日本橋 にほんばし(東京都中央区) |
品川 しながわ(東京都品川区) |
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川崎 かわさき(神奈川県川崎市) |
小田原 おだわら
(神奈川県小田原市) |
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箱根 はこね
(神奈川県足柄下郡箱根町) |
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