表題の本を入手したので早速読んだ。私は持統とは何者なのか全く知らなかったが、天照らすと関係が有るのなら一読の価値が有りそうだと思って買ったのである。
この本の著者は小石房子という人で、昭和12年生まれ、青山学院女子短期大学国文科を出たフリーライターで日本ペンクラブの会員である。あとがきを見たところ、岩波の日本古典文学大系の『日本書紀』、同じく岩波の『続日本紀』を始め約30冊の文献を参考資料としているので好い加減な著作ではないと思ったのである。
さて、読んでみると「持統」とは昔風に神武天皇を初代として数えると第41代天皇だとわかった。それでは何故天照らす、持統なのか興味津々である。
名前がややこしいので、一応先に述べておくことにする。
持統は天智天皇(第38代天皇)の娘「野(ウノ)」で25歳も年上の大海人(オオアマヒト)の妻となった。
大海人は舒明(ジョメイ)天皇(第34代天皇)の子である。従って天智と同格の由緒正しい血統を受け継いだ人である。そしてこの大海人が後に天武天皇(第40代天皇)になるのだが、即位までは大海人として記述し、即位後は天武天皇と書くので混乱しないで頂きたい。
天智天皇は生前に次の皇位を実子の大友人に譲ることにした。だが大友人の母は下賤の女なので、血統を重んずる当時としては当然皇位を継ぐ資格は劣る筈である。大海人は天智にとって邪魔な存在であり、殺される心配もあったので、髪を剃って仏門に入り、吉野へ移って時節の到来を待った。2年、3年で仏典を読み静かにしていたが、妻の力添えもあり兵を集め京へ攻めのぼった。大海人が立ちあがると、伊勢、尾張の人々はこぞって大海人の軍に加わった。皆さんご存知の壬申の乱である。
そして大海人は大友人の軍を大津で破り、大友人は敗戦の末、戦場で自害したのである。
大海人は吉野へ戻り、しばらくじっとしていたが、世の中が落ち着くのを見て即位した。第40代天武天皇である。天智の娘で大海人の妻であった野は后になったのである。
そして天武の死後、天武との実子が早く亡くなったため、野は女帝として即位し持統天皇(第41代天皇)になったのである。女帝は推古天皇、斉明天皇に次いで3人目である。
さて、本題の『天照らす、持統』に入ることにする。
持統天皇は即位後、天皇の系図を中心に各地方に残っている資料を集めたものをつくるよう命じ、『古事記』として今日も残っている。
また、我が国の由緒ある歴史を調べ、近隣国にも示すことを念頭において『日本書紀』をつくった。『古事記』と『日本書紀』は我国に残る最も古い歴史書である。
その過程で国祖をどうするかで大論争が起こった。亡き大君天武は壬申の乱に勝利したのは伊勢の神の加護があったからであると深く信じ、伊勢の社は日神を祀っており、以前から天皇家は斉主(サイシュ)を遣わしている。大君は現人(アラヒト)神、日の御子である。従って伊勢に天皇家の皇祖神社を造営するのが良いとの意見と、否我が国は三輪山に大神の社(ヤシロ)がある。大神の社には大和の国魂(クニタマ)の大物主神が祀られており、伊勢に日神を祀る社をつくることで大物主神の怒りを買うことになるという意見とが対立したのである。
昔の人々は祟りを非常に恐れていたので、この論争双方後へ引かなかった。
そこへ、藤原不比等(フヒト)が妙案を述べた。双方のご意見尤(モット)もであるが、伊勢へ祀るのを女の神にすれば三輪山の大神も許してくれよう。伊勢は大和の真東(マヒガシ)、まさに日の出(イズ)る処である。そこで女神が日の出を迎え、三輪の大神へ送るのであれば大神も許してくれると思う。
この案で両者がやっと納得し、伊勢に女神を祀ることが決まった。さてその女神の名を何とするかも、不比等の案、天照らす大神とすることで皆了解し、伊勢神宮ができたという。天照大神はこの時できた神で、約1300年前(8世紀初め頃)につくられた神であり、伊勢神宮もその時につくられた神宮である。
当時宮廷に仕えていた歌人の柿本人麻呂(カキノモトノヒトマロ)が「何事のおわしますかは知らねども、かたじけなさに涙こぼるる」と詠んでいるが、まさに当を得ているのである。
中世初期の歴史は学ぶのにとても難しい。もう一度じっくり日本史を読みたくなった。 |