東京木材問屋協同組合


文苑 随想

神道と佛教
─宗教とは何だろう─

榎戸 勇


 本題に入る前に前回書き忘れたことがあるので、若干ふれさせて頂く。

 前回、出雲大社のことを書いたが、何故出雲へ大社をつくったかについて述べるのを忘れた。7世紀末頃迄百済に残っていた人達も度重なる新羅の人々の横暴に耐えられなくなって我が国の出雲地方へ渡来してきた。山陰地方は住民も少なく、渡来した人々を温かく迎えたようだ。渡来人は出雲地方に住みついて、この地方をひとつの国のようにした。しかし近江の大王がこのことを知り、この国は私共の国に属するのだと申し入れ、出雲地方も近江の大王の支配下に入れる旨を伝えた。出雲へ渡来した人々は、出雲に私共の祖先の大国主命を祀る神社を造ることの許しを条件に出雲地方を近江の大王へ差し出した。出雲大社はこのようにして創設されたのである。『古事記』の全文を梅原猛さん(文化勲章受章の哲学者)が現代文に直した増補新版が学研文庫から出版されたので買って読んだ。梅原さんは『古事記』全文の流れを勘案して、出雲大社の創設は『古事記』のとおりであろうと述べているようだ。
 10月の神無月を終え村の鎮守の神様が村へお戻りになった11月上旬に農村の村々はお祭りをする処が多い。あとは裏作の麦の麦踏み、そして冬支度、家畜の馬や牛の冬用の飼い葉の準備をして正月を待つことになる。秋祭りはホッと一息つく時なのである。

 「村の鎮守の神様の、今日はめでたいお祭日〜」老若男女が村の神社前の広場に集まり楽しく語らい踊る。(これが盆踊りの始まりだという。お祭りは皆が楽しみである。神様も喜んで見ているのではなかろうか。)

 神道は難しく考えることはない。農村のお祭りこそ神道である。人々が心から楽しめればよいのである。

 さて、仏教に移る。仏教は聖徳太子がまだ若い頃、紀元538年に百済から我が国に伝えられた。百済へは中国の南宗から伝えられたとのことである。推古は女帝なので聖徳太子が政治の実務をし、紀元604年に十七条憲法を制定したが、政治の基本は儒教、心構えは仏教精神を強調した。

 紀元589年に中国が隋により統一されたので太子は遣隋使を607年に送った。百済を経ないで中国から直接中国の制度や文物を輸入するためである。しかし隋は滅び唐に代った。我が国は遣唐使を送ったが、その船に空海は乗り唐で真言宗を学び帰国後高野山に金剛峯寺を建て、また京都に東寺を賜って国家の安泰を祈った。最澄も空海と共に唐へ渡り天台宗を学び、帰国後成仏に身分や能力の差は無いと主張し僧侶に戒律をさずけるため比叡山に延暦寺を建てた。真言宗も天台宗も僧は山で苦しい修行をし、その苦しさに耐えぬかねばならなかった。共に密教であり、大勢の人々を救うのではなく、まず自分を仏の近くへ少しでも近づけようとしたのである。
 しかし平安時代は地方では権力争いの戦いや災害が次々と起り庶民は生活の苦しみに耐えられない状態になり、せめて死後の世界では極楽浄土へ行きたいと思うようになった。それを見た空也は民間で念仏行脚をして南無阿弥陀仏を唱えながら歩いた。自分が念仏を唱えて歩けば多くの人々が救われ極楽へ行けるとの心で人々の処を回ったのである。
 法然上人は人々に南無阿弥陀仏を唱えていれば必ず極楽へ行けると話し、浄土宗を開いた。法然は一時四国へ流されたが一年程で許されて平安京へ戻って浄土宗を広めた。深川三好一丁目にも浄土宗のお寺がいくつかある。また法然の教えを受けた親鸞は念仏を唱えずともひたすら阿弥陀仏に救いを求める信仰心があれば、必ず救われると説いた。彼は越後に流されたがその後東国に行き農民達に教えを広めた。京都西本願寺は浄土真宗本願寺派、東本願寺は浄土真宗大谷派の本山で浄土真宗を広めた。また禅宗の曹洞宗(道元)臨済宗(栄西)も発展し、また日蓮は日蓮宗を広め、「南無妙法蓮華経」という題目を唱えれば全ての人を幸福にすると説いた。
 世の中が乱れ、人々の苦しみが多いと次々と沢山の宗派が生まれるようだ。

 日本の仏教は釈迦如来や中国の仏教と離れて独自のものになったのである。また印度北部も中国も仏教はほとんど無くなったようである。朝鮮半島では半島の南東の慶州に立派な仏国寺があり、また街の南側の丘には柔らかい岩山に彫った仏様が有った。しかしどちらもお参りする人影はなかった。

 私は特に悩みも苦しみもない人生を過ごしてきた。有難いことである。毎晩ベットへ入って眼をつぶると「南無阿弥陀仏」を声を出さずに唱えながら眠りにつく。阿弥陀様に余生をおまかせする心で唱えているのである。そうすると心が休まり眠ってしまうのである。

 最近の心境「小欲知足」である。

 長い間、何年間も拙文を月報に載せてくださった組合、そして読んでくださった方々に心からお礼を申しあげて月報への投稿を終わらせて頂くことにします。満87歳、頭も大分ボケてきたようである。有難うございました。

平成24年8月9日 記
 

前のページに戻る

Copyright (C) Tokyo Mokuzai Tonya Kyoudou Kumiai 2012