東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其のIII

花 筏 


其のV−(1)

 先月号で「…店が火事でもTELが」と申し上げましたが、この原点は分かり易く申せば一門での独立、暖簾分けと云う事と密接にリンクする訳であります。戦前の材木屋は全て「屋号(マーク)」が付いておりまして、その本店のマークの一字を正式に独立を許された店だけが使用出来る訳で、それなりに一門のシバリがかなり強烈に懸かっていた訳でご猿。
即ち、「決して人様に顔向けの出来ぬ事はするな」と云う事ですが、若しそれに背いたら
「村八分」(冠婚で一分、葬祭で一分=計二分は免除)となって、木場内ではとても商売は
出来ません。何分にも仕入先は木場内の問屋しか無いのですから、困ってしまいます。

 従って名前に駿○が付いて店印がスマタ(ス。)なら駿河屋一門とかマークが△の場合は
坂東一門でその△(ウロコ)の中に好みの文字を入れていました(最盛期には15問屋)。
始めは漢字か平仮名だけで片仮名や横文字は見ませんでしたが、戦後は縛りが無くなって、扱い材や取引先に商社が増えたせいで、段々と横文字や片仮名が参入して参りました。
 以前は屋号で葉柄屋も原木屋も信用度合いが瞬時に判断が出来ましたが、昨今はこれがサッパリ判らなくなりました。
 昔の問屋は取引先の小売屋さんを大事にして、一見さんが現金を持って買いに来ても、
住所と名前を聞いて、「品物は有りますが、お宅様の近くに手前共と取引の有る○○さんと云う仲買さんが有りますので、其方に荷物をお届け致して置きますので其方でお買上げをお願いします。値段は一見さんには申さず、○○さんに勉強する様に申して置きますので、其方でお聴き下さい」と云う訳です。

其のV−(2)

 「独立」(理想的な独立とは一般的に「暖簾分け」と申します)。
 明治後期・大正・昭和前期(1880〜1927)の独立は如何なものでござんしたでしょうか。
大店の番頭を数年務めると、或る日、旦那に突然肩を叩かれ「ところで、お前さん独立はどうします」と聞かれ、「独立?、まだ何も考えていません」と答えると、「○○ドンには
今迄大変に頑張って貰ったので、独立を希望されるなら其れなりの事をさせて貰うので、
遠慮なく云っておくれ」と言われ仰天する。其れなりの事とは「暖簾分け」と云う事で、
当然、お客様や荷主は勿論、木場内の同業者も見守って居るので、主人も半端な覚悟では出来ません。各方面に一番大事な「案内状」を本人との連名で出して、銀行及び新店舗の
土地や建物も主人に保証人になって貰い、一門の商標(マーク)の使用の許可も与えられ、万端整え新規の独立をするのが本来ですので、独立をさせる方も仕来り道理のスタイルに致さぬと、恥を掻く事にもなるので大変に気を使った様でした。
 このケースは主人の同業者へ対する見栄や田舎の親元への気遣い迄も感じさせられます。
その様な具合で独立をする新店はスタートをする訳ですが、世の中には何事も例外が有り、このケースと真逆ですが「今後、○○とは一切の関係は有りません」との回状を
回す店主も居られた様でご猿。

 業界全体への独立の挨拶状の発送は当然としても、仕入先には挨拶状に添えて、「この先三年に限り不都合ある場合は善処しますので、当人の望む荷物を出してやって下さい」、と云う念書も出して居ります。尤も懇意な荷主の場合は祝儀としてトム車(15t・約100石)
一台はロハで送って来ます。(因みにロハとは、ロの下にハを付けると=只となる訳でご猿。)これを、口の悪いのは只より高い物は無いと言っておりましたが、これはやっかみでご猿。
 他にもお客に注文を頂いた荷物の手持ちが無い場合には、本店の荷物を仕入値で(原価)売って宜敷しいと云う事や、本店の全てのお客に売っても可という温情も付いておりました。
当時は売りより仕入れを争った時代で一流メーカーの仕入が出来るかどうかが命でして、如何にしてトップ・ブランドの製品の扱いが出来る様になるかが、生き甲斐でもありました。
 当時のお客様も気にいったマークの品物が来る迄、辛抱強く待っていて呉れたものでした。特に正月は特別注文の藺草の〆縄で飾った一流メーカーの荷物を林場一杯に張り付けて、威勢を示していたものです。(年始で座敷に通され、お陰で良い正月を迎えられました、と挨拶された時は涙の出るほど感激したものです。今では夢のまた夢ですが時に夢に見ます。)価格も問屋の言値で大体は通りましたが、相場の変動が激しい時には三ケ月位様子を見て平均的な価格に修整を致しました、当然メーカーにも同じ様な形で納得して頂きました。

 当時は未だ鶴見駅内での市場の販売は始まっていませんでしたので、仲買さんの仕入れ先は「深川・木場」の材木問屋しか御座いませんでした。終戦後間も無い頃でしたので、
当然、今とは全てに於いて雲泥の差ですが、何故、今の様な事に為ったのかと申しますと、
@、に問屋が時代を読み間違えていて、従来の特権に胡坐をかいて居た事だと思います。
時は戦後の復興期、特に東京は焼野原でまともな木材は0、木材らしい物があれば
全て売れる時代。木場内でも盗難が横行して、夜は安心して眠れなかった。実体験。
A、この時代に敏感に適合せず、日本全国の色々な製材所は木場内の問屋に伝手を求め
懸命に売り先を探していたが問屋はバチ(場違い)と言って2〜3流のメーカーは
相手にしなかった。
B、この時に平田周二氏(後の日榮木材市売・日榮ファイナンス)が鶴見駅の構内にて
貨車積みの儘、山陰の三流メーカー?の荷物の販売を始めた。結局、これが当った。
C、これで東京では市売は無理だと云うカベを破った。戦前にも大阪の久我商店他の方が試されたが不成功だったので、その後は誰もチャレンジをしなかった様でご猿。

※ この市売りシステムが最近は都市部ではかなり苦戦を強いられていると云われてます、果たしてこの真の原因は何なのでしょう。良く言われる30年交代説でござろうか?。

 

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