東京木材問屋協同組合


文苑 随想

「温故知新」 其のV

花 筏 


 つらつら考えるに、古今東西この日本に於いて一番ビッグな「人殺し」は誰ダ!と申せば言霊は即座に「織田信長」だと答えると思います。我国も有史以来幾多の戦に明け暮れておりましたが、中でも珍なるのは応仁元年(1467)に始まった細川VS山名の「応仁の乱」でこの十一年の長きに亘る戦で花の都は殆んど焼けてしまい、「汝や知る都は野辺の夕ひばり、揚るを見ても落つる涙は」と詠まれる有り様でした。併し、この乱の珍なるのは戦の途中で両軍共に疲弊困憊の果てに自然に鎮火となり、両者がドローに終わった事でご猿(1477)。正に「くたびれ儲けの骨折り損」な合戦でしたが、これで千年続いた花の都が消滅をして、これ以降は尾張のうつけが変身をした「織田三郎信長」が颯爽とデビューする次第でご猿。
 デビュー戦で三遠駿の太守で源氏の氏の長者であった今川義元の首を取った桶狭間での戦いは見事でござった。信長はその後に「楽市楽座」を奨励して銭を稼ぎ、その銭を使い「兵農分離」を遂行し「常在戦場」を可能ならしめ、無知蒙昧なる庶民を篭絡して諸悪の
根源であった各宗派が握っていた、菜種油や料紙の販売権を売る売僧の退治に専念する。
特に伊勢・長島の一向一揆を完膚なきまでに叩きジェノサイト。続いて比叡山・延暦寺の焼討ちを敢行して、白頭巾・薙刀・一本歯の下駄を履いた僧兵を一掃して、神輿を担いで天皇のおわす内裏へ強訴に及ぶという、平安時代から踏襲されていた悪弊の幕引きをする。
 これまでの日本の坊主は常に武器を携帯しているのは当たり前で、その数たるや下手な大名など及びも付かない程でご猿。そして各宗派の本山同士が夜討ち朝駆けは当たり前で常にツツキ合いをしていた訳です。この荒くれ坊主の息の根を止めたのは信長と秀吉で、信長は直接対決で殲滅。秀吉は「刀狩り」で武器を取上げるという荒療治を行っています。
 最も、各寺院は自前の武器製造工場を持っており、朝から晩までトンテンカン〃〃〃と作刀をしていた訳で、日本各地からの注文も受けておりました。その為に千手院○○とか当麻○○、手掻○○、保昌○○、尻掛則長、という大和(奈良)鍛冶の名が知られております。そして、この当時の刀工はかなり上手です。各寺から御師が全国の講元(得意先)に廻るので上手・下手の評判がすぐ判り、それによって売れ行きが違う訳です。腕の良い刀工が一人出ると同名異人が矢鱈に出て来ます。例えば備前の祐定や関の兼元には、両方共6〜70名の同銘異人が居ますが、と言って偽物では無いので後世の識者が弱っている訳で有ります。
 ところで、今でも各社寺の宮司や坊さんの全員が武装をしていたら如何に思われますか。日本では考え付かないと思いますが、今でも中近東のイスラムの世界では現実なのですね。日本では武装解除が遅れたのは紀州の根来寺です。為に秀吉にコテンパンにやられました。高野山の金剛峰寺は比叡山の例を見て、早目に恭順をしたのでセーフでした。

ところで、信長の好んだ物が3つ程ございます。
(1)「つくも髪」という室町時代よりの「茶器」の大名物。
大名物とは室町8代将軍足利義政公が選んだ名物類の事であり、茶器他色々な名物がございます。
(2)太刀の「来国行」銘の名刀。
(3)当時の武将である五郎左とは「丹羽五郎左衛門尉長秀」の事でご猿。
以上の3点の説明は次回に申し上げます。

 

 

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