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※この富士山は五合目より写した写真で初雪が僅かにある9月25日の風景です。日本の富士山はすばらしい。中でも七・八合目ぐらいに雪のある1月頃が特に良い。 |
富士山に登山した事がありますか。富士山に一度は登って見たいと思う日本人はすごく多いそうだ。しかし、登った事のある人は大半が苦労され、最初は二度と登らないぞ、来るもんかと思う。それが時間が経つと又行きたいと考え登りたくなる。でも富士山は遠くから見るのが一番美しいのかな〜とも思う。
今回、富士宮市宮町にあるこの本宮浅間大社に縁あって祈願と散策に出かけた。
そこで、改めて「富士山」と、この浅間大社について調べて見た。「富士山」は日本一高い山である。でも高いというだけでなく、穏やかで美しい。しかも荘厳な姿は世界でもその例がない山であると思う。
日本人は大昔からこの霊山を仰いで、云わず語らずのうちに多くのことを教えられ、美しい清らかな、そして雄大な心を養って来た。「富士山」は日本人の理想の姿であると思う。内には天地も揺るがす力を持ちながら、その美しい清らかな姿は平和を愛する日本人の心の象徴でもある。「富士山」は訪ねてくる人みな同じように、快く迎えてくれる。どこの国の人でも、この山の霊気に触れて感心しないものはいない。誰でもこの霊峰を拝すると人間の及ばない大きなものを感じ、その荘厳に打たれないものはない。誠に「富士山」はただの山ではなく、崇高な存在で、人間の知識では分からない働きがある。これが本当の「神」かも知れない。九州より上京する時、又帰る時、いつも「富士山」が見えるかどうか気になったものだ。すばらしくその容姿が見えた時の感動は特別で、きっと良い事があるぞと感激した思い出が何回かあった。
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※本殿、二重の楼閣造で棟高45尺。浅間造りと称し、外に例がない。明治40年に古社寺保存法により、国の重要文化財に指定される。 |
この富士山本宮浅間大社の御祭神は「木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)」と言う。別相殿神として「瓊々杵尊(ににぎのみこと)」、「大山祇神(おおやまづみのかみ)」の2神であると言う。
「日本(ひのもと)の大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる 富士の高嶺は見れど飽かぬかも」と万葉の歌人高橋蟲麻呂が詠んだと言う清らかで気高く美しい富士山。この霊山を御神体として鎮まりますのは、大神「木花之佐久夜毘売命」なのである。
この命(みこと)は、「大山祇神」の御息女にして大変美しく、天孫「瓊々杵尊」の皇后となられた御方である。命は懐妊されたが貞節を疑われたことから証を立てるため、戸の無い産屋を建て、周りに火を放ち御出産になられた。そして、無事に皇子が生まれたという故事にちなみ、家庭円満・安産・子安・水徳の神とされ、火難消除・安産・航海・漁業・農業等の守護神として全国的な崇敬を集めていると言う。
木花(このはな)という御神名から桜が御神木とされている。境内には500本以上もの桜樹が奉納されており、春には桜の名所として賑わう。また「申の日」に富士山が現れた故事から神使いは「猿」とされている。
「申年」のあなたは、「富士山本宮浅間大社」が、あなたを守る本宮大社ですよ。
大社の歴史について
第7代孝霊天皇の御代、富士山が大噴火をしたため、周辺住民は離散し、荒れ果て年久しく長期に及んだが、第11代垂仁天皇はこれを憂い、その3年に浅間大神を山足の地に祀り山霊を鎮められた。これが当大社の起源と言う。
ついで第12代景行天皇の御代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東夷御征伐の時、駿河国に於いて賊徒の野火に遇われたが富士浅間大神を祈念して其の災をのがれた給い、その賊を征服するや山宮の地(大宮の北方約6キロ)に於いて厚く大神を祭られた。
その後、第51代の平城天皇の大同元年坂上田村麿勅を奉じて現在の大宮の地に壮大な社殿を営み山宮より遷し鎮め奉った。
それ以来一千百余年全国一千三百余に及ぶ浅間神社の総本社として全国的崇敬を集める東海の名社となったと書かれている。
古来朝廷の御尊崇は大変厚く延喜の制には名神大社と並び、駿河国一宮として勅使の奉幣神領の御寄進等をお受けになり、武家時代に入ると源頼朝は神領を寄進したり、北条義時・足利尊氏同義持等何れも社殿を修営した。武田信玄・同勝頼父子は諸種の宝物を献上され社殿を奉建し、豊臣秀吉も亦神領を寄進したと言う。1604年(慶長九年)徳川家康は戦国擾乱の鎮静と将軍宣下の奉賽のため、本殿・拝殿・楼門その他を奉建し更に1606年(慶長11年)には富士山八合目以上を当社へ寄進したと言う。
従来、徳川氏は当宮を崇敬すること大変深く、3代の家光は社領を献じ、4代の家綱(いえつな)、5代の綱吉(つなよし)、10代の家治(いえはる)、11代家斉(いえなり)、13代家定(いえさだ)、家茂(いえもち)等も夫々祈祷料・修理料等を積極的に寄進したと書かれている。
又室町時代に始まった富士登拝は江戸時代に入っていよいよ殷盛を極め以来今日に至っているが、本宮所在の大宮は富士山表口と称せられ関西方面から来る道者の登山口であったことは勿論、特に本宮を崇敬する関東、東北の道者たちも此の道を選び、又甲斐、信濃より来る道者も多かったようである。彼等は社人中特定の道者坊に着いた後本宮に参詣し、更に境内の「湧玉池」にて「斎戒沐浴」して登山するのを習いとしたと言う。
明治維新後、全国の神社は国家管理となり、新しい階位が作られ各神社に付与されたが当富士山本宮浅間大社は駿河国一宮であったことから、1871年(明治4年)5月14日に国幣中社に、さらに願いによって1896年(明治29年)7月8日宮幣大社に列せられた。第二次世界大戦終戦後、神道指令、宗教法人法の制定により、当大社も宗教法人となり、名称を「富士山本宮浅間神社」と変更した。しかしその後、官幣大社は大社と名乗る例が多く、全国一千三百余社ある浅間神社の総本宮たるにふさわしい名称とするため、1982年(昭和57年)「富士山本宮浅間大社」と変更したのである。
大宮に鎮座し、一千二百余年を経た現在、全国一千三百余に及ぶ「浅間(せんげん)神社」の総本宮、また、駿河国一之宮として、全国浅間神社の人々に崇敬を集める東海の名社となったのである。
社殿について
徳川家康が征夷大将軍となり江戸に1603年(慶長8年)に幕府を開いた翌年の1604(慶長9年)、奉賽のために造営した、本殿・拝殿・舞殿・楼門等壮観を極めたものであったようだが、寛永安政等の大地震で破壊したものもあり、当時の建物で現存するものは本殿・幣殿・拝殿・楼門のみであると言う。
この社殿、本宮境内の広さは約17,000坪、家康公寄進の神殿、楼門を中心とした神域は、行って見ればわかるが、富士山を背に見事な景観であった。
本殿は、
二重の楼閣造で棟高45尺(13.6メートル)、浅間造りと称し其の構造は他に例がないと言う。1階は5間4面葺卸の宝殿造り、2階は間奥行2間の流れ造りで共に桧皮葺である。1907年(明治40年)5月27日古社寺保存法により特別保護建造物に指定され、以後国の重要文化財として特別の保護を受けていると言う。
幣殿・拝殿
幣殿・拝殿は本殿と同じく徳川家康公の寄造営によるもので、屋根は本殿と同様桧皮葺であり、外側・内側は丹塗となっている。
幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ「作合」と呼ばれた部分で、間口、奥行3間の両下造、北面には本殿の屋根の端が露出している。元は石畳であったと言うが、現在は床に改められている。拝殿は、間口5間、奥行5間で床が幣殿より2段高くなっている。正面が入母屋造、背面が切妻造で、正面に向拝が1間出ている。正面に扉があり、左右は蔀戸によって区切られている。正面左右には濡縁を巡らせている。
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※楼門(徳川家康造営)
高さ39尺、間口4間、奥行2間半、屋根は桧皮葺。家康の造営したもので築400年以上経っている。 |
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※湧玉池(わくたまいけ)(特別天然記念物)
富士山の湧水である。この池は毎秒3.6klの湧水量を誇り1日20万トンにもなると言う。 |
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※家康より富士山の八合目より上を大社所有地に寄進されたが、戦後国有地となり、裁判中だったが、大社側に戻った碑である。 |
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※流鏑馬の像。建久4年源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行った時奉納したのが起因とされ、毎年流鏑馬祭が行われている。 |
「楼門」について
この門は間口4間(7.3メートル)、奥行2間半(4.5メートル)、高さ39尺=6間半(約12メートル)2階入母屋造で、正面・左右脇に扉が付く、楼門の左右には随身が安置しており、背銘に1614年(慶長19年)の年号がある。楼門に掲げる扁額は聖護院入道仁親王の御筆で1819年(文政2年)に制作されている。
「湧玉池」について
東脇門を出ると平安期の歌人平兼盛が「つかうべきかずにをとらん浅間なる御手洗川のそこにわく玉」と詠じたと言われる「湧玉池」である。この池は富士山の雪解け水が何層にもなった溶岩の間を通り湧出するもので、特別天然記念物に指定されており、水の湧出する水源の岩上には朱塗優雅な「水屋神社」がある。富士山登山者はこの霊水に禊ぎをして登山する古くからの習わしがあると言う。
いずれにしても「富士山」は日本を象徴する天下の山であり、日本を代表する美しい山でもあり、日本一の高い山で、平和を愛する日本人の心の象徴でもあると思う。そのふもとに大社があっても当然でありその大社がこの駿河国一之宮「富士山本宮浅間大社」と言うことになる。
そして、徳川家康が1603年江戸幕府を開き駿河の国に縁の深い家康が力を入れて報賽のために造営した社殿については実に納得の神社と言える。そして家康は富士山山頂8合目より上を神社へ寄進した。これも納得だが。
それが戦後、神社の甲地は国の所有となった。そして1953年(昭和28年)他神社の用地は払い下げとなり神社のものになったが、その時、富士山八合目から上が払い下げとならず、訴訟をおこしていたと言う。それが1974年(昭和49年)4月9日に最高裁から判決が出て浅間大社の所有に正式に決まったと言う。その碑が写真の「勝訴の碑」である。本殿の右側の中庭にある。国と神社が訴訟をおこし神社が勝ったと言うめずらしい碑でもある。
当大社の祭事はけっこう多くあるらしいが中に「流鏑馬(やぶさめ)祭」が有名らしく、毎年5月4日、5日、6日と3日間あり、社伝によると1193年(建久4年)「源頼朝」が富士の裾野で巻狩を行った時奉納したのに起因すると云われ1577年(天正5年)の富士大宮御神事帳や1650年(慶安3年)の富士本宮年中祭礼之次第等に見える古儀であるらしい。4日が前日祭、5日が本祭、6日が後日祭となっているが本祭当日は神前において「流鏑馬祭」が古式豊かに行われた後60余頭の馬に神職・武者稚児其の他が騎乗して市中の練行があり、次いで境内桜の馬場で「流鏑馬式」が行われると言う。この祭事には遭遇していないが、一度経験したいと思っている。
この「富士山本宮浅間大社」は富士山より西南にあたり、東海道より国道139号を10km程北へ行くが、近くには観光地も多く、田貫湖の近くには「鱒(ます)の家」がある。富士の山麓に洒落たにじます料理はコースにもよるが、「優」である。
富士山を取り巻く町々村々は富士山の恩恵をどれ程受けているか計り知れない。
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