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※靖国神社の正面拝殿、明治34年(1901)に建てられたもので、おごそかな雰囲気で重みを感じる神社である。右に行った所に靖国会館があった。 |
私の知人に、「田中伸茂」と言う知識人がいる。彼の岳父(妻の父)が、故・「田中正明」翁である。この翁が東京裁判で「絞首刑」になった7人の1人「松井石根大将」の秘書役をしており、鞄持ちでもあったと言う。
この「田中正明」翁は2006年(平成18年)に95才で他界したと言うが、亡くなる直前まで「松井石根大将」等の無罪を言い続け、世に言う「東京裁判」、「南京事件」、「絞首刑」になった7名の名誉回復のために一生を捧げたと言う人であったと聞いた。
その「田中正明」翁の口癖は「正しい歴史観を持て」「信念を持て」と言い続けて亡くなったと言う。
やはりどんな時代でも、どんな世の中でも、信念を持って、正しく生きる人でありたい。立派な社会・組織・団体・組合の責任者という人は愛があって志が高く、固定観念に捉われず、前向きで立派な人格者が望ましい。
今、国際化が進み、市場原理主義が中心となり、発展途上国も急成長する中、世界規模で様々な問題が浮彫りとなってきた。
今ほど「人」が重要な時代はないと思う。正しい歴史観を学び、今一度日本の良さ、日本人の良さを見直し、国際社会の中で確固たるアイデンティティを築くべき大切な時なのである。
そんな時にあえて、日本が再出発と言うべき戦後の大改革に遭遇した「東京裁判」の画像を田中伸茂氏の計らいで観ることになったのである。
2011年3月11日、東日本大震災が発生した。歳月は忘却の友、いかなる苦しみも、悲しみも歳月の流れにはかなわない。時代と共に風化していくが決して風化させてはならないこともある。
東日本大震災もそうだが、全世界を呑み込み、人類史上未曾有の被害と惨事を生み出した第二次世界大戦。その終結からもう67年が過ぎた。
今現在、戦後生まれの人口の方がはるかに多いのかも知れない。思えば悲惨にくれた昭和20年の廃墟の日々、そして占領政策の総括ともいうべき「東京裁判」の結審・・・その日から日本は新しい第一歩を踏み出すことになったのであるが・・・。
各国の様々な思惑や意見が交錯し、全世界が注視する中で開かれた「東京裁判」。これこそ、戦後世界の動向を示し、新たなる世界秩序を示したはずであったのだが・・・。
この度、改めて私が観た『極東国際軍事裁判(東京裁判)』の映像は、
歴史的に貴重なフィルムを、アメリカの国防総省(ペンタゴン)が、第二次世界大戦の記録として丹念に撮影・収録し、秘蔵していたもので、その中には日本軍、東京裁判の全容と巣鴨や大森拘置所における戦犯たちの生活などの撮影フィルムが約3万巻も保管されていた。驚くべき数量である。ペンタゴンが第二次世界大戦の資料として解禁したフィルムを中心に「東京裁判」が収録していたものである。
そのフィルムの山から、約930巻(170時間分)を引き出すことに成功したと言う。
この解禁フィルムには、ヨーロッパ戦線、日中戦争、太平洋戦争などの記録が収められている。また中国側からの対日戦記録フィルムをはじめ、西独、ソ連、イギリス、フランスなど第二次世界大戦関係諸国からの資料もぎっしり集約されている。
この膨大なフィルムを約5年間の日時をかけ、巨費を投入した。貴重なフィルムの中から、世界中が大きく揺れ動いた時代の見直しが再出発する。満州事変にはじまり、日中戦争へと拡大、一方ヨーロッパではナチスの台頭と侵略、ファシズムの膨張、更に第二次世界大戦そして終結。その総決算としてヨーロッパではニュルンベルク裁判が、アジアでは『極東国際軍事裁判(東京裁判)』が開かれたのである。
この「東京裁判」の法廷シーンのフィルムには原音が入っている。そのうえ3台のカメラが3方から同時録音の撮影というど迫力のあるものだった。
この法廷で、旧日本の支配体制指導者たちの苦悩、思惑が複雑に絡みあい、戦争の悲惨な実情が告発され、かつての将軍、大臣、首相、皇帝など世界史の生き証人が続々とスクリーンに登場、なかでも東條英機対キーナン検事の生々しい肉声の論争はすさまじいものがあった。
上映時間4時間37分におよぶこの長編映画は、いわば戦後の原点を解く鍵であり、昭和史の凝縮でもあると思われる。
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※マッカーサー元帥が日本に到着し、入場する所であるが、オーバーコートに身をつつんでいる映像で寒い冬の1月であった |
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※当時のマッカーサー元帥で、連合軍最高司令官。 |
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※裁判中、度々出て来る風景である。 |
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※東條英機が「絞首刑」の判決を受けた瞬間。 |
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※メガネをかけ、ひげが印象的な東條英機大将。被告席にいて、ヘッドホンをかけ真剣な表情。 |
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極東国際軍事裁判市ヶ谷法廷(旧陸軍省・参謀本部) |
日本の裁かれた満州事変から17年8ヶ月を顧みる。
昭和20年8月15日、日本は「無条件降伏」により戦争は終結した。そして昭和21年1月22日。ポツダム宣言に基づいて、連合軍最高司令官マッカーサー元帥が、極東国際軍事裁判所条例を発布し、戦争そのものに責任ある主要戦犯を審理することになったのである。
これが戦後日本の進路を運命づけることになった正式名称『極東国際軍事裁判(通称:東京裁判)』なのである。
満州事変から支那事変、太平洋戦争におよぶ17年8ヶ月間、日本を支配した指導者100名以上の戦犯容疑者の中から、28名が被告に指定され、法廷は市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部、現在の自衛隊市ヶ谷駐屯地に用意されたのである。
裁判官及び検事は、降伏文書に著名したアメリカ他9カ国と、インド・フィリピンの計11カ国の代表で構成され、裁判長にはオーストラリア連邦代表、ウィリアム・F・ウェップ卿が、主席検察官にはアメリカ合衆国代表、ジョセフ・B・キーナン氏が選ばれた。
一方弁護団は28人に対する主任弁護人が全部揃わず、2人の被告を兼任するものが4名もおり、また米人弁護団もほとんど米国を出発していなかったと言う。34名のメンバーのほか、通訳陣を含めて100名以上のスタッフを揃えているキーナン検事団とは、あまりにも格差がありすぎた。
昭和21年5月3日、(今で言えば祭日の憲法記念日である)開廷した裁判所では、まず起訴状の朗読が行なわれ、第一類「平和に対する罪」、第二類「殺人」、第三類「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」に大別され、55項目に及ぶ罪状が挙げられたのである。
昭和21年6月4日、キーナン首席検事の冒頭陳述が行なわれ、南京事件、泰緬鉄道を巡る大量虐殺などの残虐行為にふれ、「正義を伴わぬ文明は背理であり、この裁判の要求は、実に文明と、人間存在の要求である。」と強調し、個人の責任も免れることができないと述べたのである。
弁護側は、戦争は国家の行為であり、個人責任は問えないと異議申し立てを行なったが個人を罰しなければ国際犯罪が実効的に阻止できないとの理由で、裁判所はこれを却下した。
こうして昭和23年4月15日まで、実に416回の公判が行なわれ、11月12日判決が言い渡されるまで、2年6ヶ月の歳月と当時の金で27億円の巨費が費やされたと言う。
28名の被告のうち、大川周明は入院して免訴となり、元外相、松岡洋右と、元帥海軍大将、永野修身は公判中死亡した。残る25名のうち、土肥原賢二大将、板垣征四郎大将、木村兵太郎大将、松井石根大将、東條英機大将、武藤章中将、廣田弘毅元首相の7人が絞首刑を宣告され、他の被告は終身刑または有期刑であった。
判決については、インド・オーストラリア・フランス・オランダ・フィリピンの5判事が少数意見を提出して、異議を記録にとどめた。なかでもインド判事パルは、裁判の違法性と非合理性を指摘して全員無罪を主張した。そのパル判決書は、世界裁判史上でも無類のものとして、現在でも高く評価されている。
死刑を宣告された7人に対する票決は陸軍軍人6人はいずれも7対4だったが、廣田元首相の絞首刑は6対4で、ただ1人の文官だったことと、だれ1人その極刑を予想するものがなかったことで注目されたと言う。
処刑は昭和23年12月23日未明、巣鴨拘置所で実施され、処刑終了後マッカーサー元帥は「私は全知全能の神が、この悲劇的な終末の事実をもって、戦争の全く無駄であることを悟り、やがてすべての国家をして戦争を否認するにいたる象徴となることを願うものである・・・」との声明を発表したと書かれている。
終身刑及び有期刑を宣告された被告のうち、梅津美治郎陸軍大将、小磯国昭陸軍大将、白鳥敏夫元駐伊大使、東郷茂徳元外相4人は、服役中病死し、残りの被告は講和条約調印(昭和26年9月8日)後に仮釈放された。
そして、昭和33年4月7日、東京裁判に参加した11カ国政府は戦犯者の刑の免除を発表し、東京裁判は名実ともに解消されたのである。
この映像は田中伸茂氏がDVDを保管しておりあえて、彼の知人達に声をかけてセッティングしたものである。彼の岳父が他界する最後まで、名誉回復のために一生を捧げたと言うすごい信念の話を聞いて、改めて本当の日本人の心、真髄が見えるような気がした。
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