東京木材問屋協同組合


文苑 随想


日本の文化 「日本刀」…Japanese Sword…

「♪一家に一本 日本刀 スカッーと爽やか日本刀♪」

其の99(晦日)
(エトセトラ)

愛三木材(株)・名 倉 敬 世

 トウトウうとうとしている間に、この連載も皆様のお目を汚して大分長くなりました。
目が覚めるといつの間にか来月で100回の大台を迎える事と成り、100を12月で÷ますと八年少々となり、丁度ヤ〜ネンと語呂が合いますが、皆様には余り興味の無いと思われる迷文を、八年もの長きに亘り臆面も無く書き連ねて来た訳で、誠に汗顔の至りであります。
因って、区切りの良い処で納筆を致す所存でありますので、予めお知らせを申し上げます。
 思えばその昔、「深川・冬木町・由来記」を手掛けた時は十年以上の歳月を費やしましたが、当時は右脳も左脳もマア〃〃でしたが、昨今は脳幹が溶けかけてオーノウの有様で、
ボケが全身を巡り、ロレツも回らずギブアップの状態で完全に賞味期限が切れましてご猿。

 小生の得手としますは「刀剣」と申す余り一般には馴染の無い分野ですので、どれだけ
皆様のお役に立てたかと思いますと忸怩たる感が致しますが、日本人の魂の原点として、
一端緩急の折には必ずやお役に立つ事が有ると存じますので、その節にはぜひ思い出して頂ければ誠に光栄でありますと共に、貴重な紙面を長らくお借りした面目が立ちまする。

 尚、来月号のお別れの前に小生が何故これほど刀剣に深く踏み込んだのかと申しますと、元来、小生は無芸大食で歌舞音曲には縁の無い方なのですが、ある年の組合の役員改選に何かの手違いで指名をされまして、熱海での初顔合わせの宴会の折りに大恥を掻きまして、この時に「芸は身を助ける」と言う事を痛烈に感じ、これでは遺憾と辰巳芸者の残存者に
ロング・ソング(長唄)を習う事と致し、連日連夜の手取り足取りの特訓を受ける事になり、何とか数曲程を仕上げる事が出来ましたが、昨今は小生も加齢の為に正座する事が叶わず伸吟している状態であります。和風の芸事は大体が畳の上の世界ですので、正座が基本で
胡坐や立膝はペケでご猿。因ってこの所は永のお休を頂いて居りますが、この長唄の中に
古来有名な名刀の名前が出て来る演目がタント有ります。これ等の名称を目にし記憶する
丈でも滅多に無いかと存じますので、「知るは一刻の恥、知らぬは一生の恥」とも申します。因って、「知らぬ存ぜぬ」よりは一日の長となると思います故、少々注釈をさせて頂きます。
 では、外題の演目は「蜘蛛拍子舞」天明元年(作詞・桜田治助、作曲・杵屋佐吉)より。

 ここに縦に三味線の楽譜と謡いの文句を入れ、その中の刀鍛冶の名前に番号をフリ、説明を加えます。

 
 

(1)天国。古来より日本刀の祖と云う。平家重宝「小烏丸」の作者との説あり、大宝(701)頃。

 
御物 太刀 無銘(小烏丸)
 
 
錦包糸巻太刀拵 [刀身 無銘(号 小烏丸)]
 

(2)天座。天国の門人で大和の宇陀郡住が通説だが知名度は低い。室町以前に記載が見えず。
(3)神息。和銅(708)頃の九州豊前の宇佐八幡(卑弥呼の在所)の社僧。平城天皇の御剣の作者。

 
 

(4)天蓋・重俊。大和(奈良)の東大寺の手掻門の周辺に居て東大寺のご用を務めた鍛冶集団。
(5)當麻の少将。大和の當麻寺に属する鍛冶を当麻派という。宝治二年(1284)の在銘刀あり。
(6)金剛・正枝。大和千手院鍛冶・貞応(1222〜24)。正枝は不明なれど同門と思われる。
(7)力王。大和、千手院重弘の子、承元(1207〜11)頃。
(8)一王。大和、正元(1259〜60)頃の千手院鍛冶。
(9)加賀四郎。この派は和泉国(大阪)に於ける古刀期の刀工群。室町初期に光正より発祥す。
(10)相模の新造五郎。岡崎五郎入道正宗と弟子の貞宗・国広・広光・秋広・等の一門の鍛冶。

 

(11)月山。出羽三山(月山・羽黒山・湯殿山)の修験道の鍛冶。後に平泉の藤原三代の鍛冶も務む。
(12)盛房。大和千手院派。貞治六年(1368)の作刀がある。室町初期、義満12才で将軍となる。
(13)雲頭。備前鵜飼派の刀工。雲生・雲次・雲重が著名。山城と備前と備中(青江)の三種融合。
(14)行平。渡辺綱が京都一条戻り橋で鬼を切ったと言う有名な鬼神大夫行平は伝説上の刀工。
 実在の行平は豊後の彦山の僧・定秀に習い鍛刀。腰元に浮彫。焼き落し顕著。刀銘に切る。
(15)長船則宗。福岡一文字派の祖。後鳥羽上皇の正月の番鍛冶、菊一文字、大一文字と言う。
(16)三条宗近。昔から謡曲や長唄の「小鍛冶」などで有名でご猿。永延(987)頃の実在の刀工。

 
太刀 銘 三条(名物 三日月宗近)
 

(17)島田義助。静岡県菊川の大井川辺に住し今川家に仕えた刀工。義元死去後は甲州武田家。
(18)文殊四郎。大和の手掻派の本流の別称。手掻四郎左衛門包永が文殊菩薩に帰依した為。
(19)兼光。相州正宗の10哲の一人。備前長船の直系の景光の子。国宝・重文が数〃ご猿。
(20)S長光。備前長船光忠の子。切れ味がよく「大業物」に入り、古来より名物も数が多い。
(21)青江四郎。備中青江鍛冶の一人。青江は時代により、古青江・中青江・末青江と分かれる。
(22)助光。備前長船助光。応永三年(1397)一文字では備前吉岡左近将監紀助光とも相異する。
(23)仁王三郎。清綱を祖とする周防の刀工群。仁王堂が火災の時に清綱刀で鉄の鎖を切った。
(24)左文字。筑前を代表する刀工。正宗十哲と云われる名人。本名が左衛門三郎の為、左。

 

(25)盛綱。博多住源盛綱、筑前初代金剛兵衛盛高の子。建武(1334〜38)頃。
(26)安綱。伯耆国(鳥取県)大原の住人。弘仁四年(813)没。平安後期の刀工、童子切りの作者。

 
太刀 銘 安綱(名物 童子切)
 

(27)友成。古備前の代表工。備前実成の子。永延(987)三条宗近・安綱と並び日本三名人の1。

 
太刀 銘 友成作
 
桜花文兵庫鎖太刀拵 [刀身 銘 備前国友成]
 

(28)君万歳。長寿を祝う言葉。「君万歳友成」の他に古くから多くの刀工が添銘にして居る。

短刀 直光造・君万歳
慶応元・小春日
 菖蒲造りの小短刀で、中央に鎬が立ってやや鎬高く、反りはない。地鉄、小板目が無地風につみ、表はそこに柾を交えてやや肌立ち、地沸がこまかにつく。刃文、細い直刃で、表は沸深めに二重刃かかり、裏は締まって小のたれがかる。帽子、直ぐに表は先き掃きかけ、裏は丸に返って沸づく。
 鍛冶平こと細田平次郎直光の短刀である。直胤・直勝に学んだが、自らの作力よりも、廃刀令後、生活に困り、新刀・新々刀の有名刀工の偽銘を切ったことでよく知られる。本作は出来はもう一つかもしれないが、数少ない直光自身銘の一振で貴重である。

以上。

 日本刀の歴史は1000有余年ですので、未だ〃〃種は無尽蔵に有りますが?書き手の方のボケが意外に早く進行して参りまして賞味期限が尽きる寸前となり申した。因って、区切りの良い所で納筆を致す予定でありますので、ナンデモヨイデスカラ、ご質問等がありましたら、遠慮なくお問い合わせをお願いします。
 …知らないのは、恥 だけですから…、お気軽にドウゾ!


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