東京木材問屋協同組合


文苑 随想


『歴史探訪』(72)

江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎

 東海道ネットワークの会主催による宿場ラリーは、25日間かけて11月23日、正午過ぎ無事に京都三条大橋に辿り着きました。私はそのうち4日間参加しました。11月3日、東海道一の難所箱根を越えましたが、私が3回目の11月13日に参加したラリーの一行は浜名湖を過ぎ、新居宿まで来ておりました。今回は新居宿〜吉田宿と、最終日の大津宿〜三条大橋を歩きながら歴史探訪をします。

 新居関所趾はきれいに整備され、街並みも住む人達の協力によって極力当時の面影を残すよう配慮され、これは生活しながらさぞ御苦労されたことと拝察致しますが、随所に宿場を守り後世の人に引き継ごうとする町の人達の心意気を感じることができます。新居宿は地震等の災害により二度移転しています。火災に遭った経験を生かして、今でも火に強い槇が植えられている庭が目に付きます。
 東海道は本陣跡で直角に曲って南に向かい、国道一号線と合流して西へ曲がります。源頼朝が上洛の折り、当地に泊り茶を立てたという風炉の井がありましたが、今は井戸はなく石碑が立っているのみです。今日の参加者は13名、うち2名は会員外の男性です。右手に立派な楼門があり、これは鎌倉時代から続いている見返りの松で有名な教恩寺で、頼朝に愛された遊女が尼となり、妙相と号して建てた寺院と云われています。境内の大銀杏は樹令推定450年。右手奥に紅葉寺跡があります。この先松並木が続き、明治天皇野立所跡の石碑を左に見て湖西市に入ります。右手山の上に大きな風車が見え、東海道は汐見坂を上り始めますが、かなりの急勾配で、全員息が切れて体力差で列は長く伸び、上り切った左手が白須賀本陣跡で、紀州藩御用宿であった紀伊国屋が今は資料館となっています。

 ここで休憩しお茶のサービスを受けておりますと、後続隊が続々と集って来て、皆で記念撮影し、又歩き出しますと、広重の「白須賀汐見阪図」と同じ景色が見えます。今日は少し曇って霞んでおり、広重の浮世絵に比べ物足りない感じです。宿場内は整然としていますが、静かで誰も歩いて居りません。家並みが途絶えますと東海道は国道と合流し、注意しなければ気が付かないまま県境を越えて三河のくに(愛知県)に入りますが、今日は資料館の所長さんの御教示により、境川を確認することが出来ました。国道が大きく曲る角の緑地に、東海道ネットワークの会が十年程前に植えた松が十本皆元気に育っていることを立札で知りました。先輩達のご苦労に脱帽。広い駐車場のあるコンビニの構内で、皆それぞれ昼食を調達して休憩します。午後から通る二川宿は宿場祭が開催され、本陣は無料開放されています。『三河のくににあって二川宿とはこれいかに』町の若者が扮する大名行列や、小中学生の鼓笛隊等、町を挙げてお祭が賑やかに催され、見物客もやって来て街道は溢れんばかりの盛況であります。我々ラリーの列は五百米程に延びた為、各自ばらばらに大賑いの中を遊泳しながら、二川駅前に午後二時半に全員無事に辿り着くことが出来ました。二川駅からは新たなメンバーとその招待者を含め、ラリーの行列は増殖しながら残り5.9粁の行程を進んで行きます。仲間の中にはルートに詳しい人も居られ、新しい知識を得ることが出来ました。今回のラリーは、近代化によって埋設した旧街道のルートを堀り起こし、今後歩く人が迷わないよう地元の了解を得て正しい方向にシールを貼って示すという重要な役割も担っておりました。
 吉田宿は今の豊橋で、1590年、池田輝政が入封して吉田城とし、以来発表を続け、現在の数拾万人を擁する大都市となりました。吉田城は東西に惣門があり、東惣門を過ぎると、旧東海道は複雑に何回も直角に曲って城郭内を通り西惣門へ抜けて行きます。白須賀宿で見た曲尺手(かねんて)という道路計画を示す用語が曲尺町という町名となって残っています。市内の旧道も会員の貼るシールによって、後日歩く旅人は街道の仕組みを知ることでしょう。

 11月23日、今日は宿ラリー最終日です。10月30日、日本橋をスタートし、25日間、照る日も降る日も、メンバーの誰かが歩き、一日平均20粁を歩き繋いで来ましたが、今日は大津宿から京都三条大橋まで11.7粁を行き、正午過ぎに、会員のリレーによる全コース踏破が達成されます。
 大津祭に繰り出す曵山展示館前を9時に出発しますので、早朝新横浜から新幹線に乗り京都からJR琵琶湖線に乗り継ぎ、大津駅からタクシーを駆ってようやく出発間隙に馳せ着けました。20名以上の会員、役員が賑々しく出立しました。街道宿場の中心部に限って電柱を撤去し線を地中に埋没する整備計画があります。旧東海道は西へ進み、札の辻で直角に曲って南下し、逢坂の関を越えますが、『これやこの行くも帰るも別れては知るも知らぬも逢坂の関』という有名な百人一首の作者蝉丸ゆかりの蝉丸神社上社、逢坂の関跡碑を過ぎると蝉丸神社分社があります。街道沿いに休憩所があり、トイレ休憩して居りますと、大津駅に遅れて着いた健脚の女性会員が韋駄天の如くやって来て追い付きました。初日も遠路愛知県から上京し助けてもらいました。11月13日も二川駅に突如現われ、吉田宿まで明るく我々をリードして呉れました。休憩後、細い旧道を一列になって上り、脇道のような細い道が旧東海道であったことを始めて知りました。私が平成6年に通ったときは路面電車が走っていた記憶がありましたが、大分前に地下鉄になり、その京阪山科駅前の公園が最後の休憩地となり、地下鉄から上って来た10名程の会員も加わり、初日以上の大賑いになり三条大橋に向かいます。橋の袂では会員始め迎える人、歩き終る人が全員笑顔で一同に会し、宿場ラリーは大成功でフィナーレとなりました。

 私がこの企画を知ったのは5月21日の総会の席でありました。しかし準備期間を考えますと、恐らく企画から実行、終了まで一年近くを要したことと思い、改めて実行委員の皆様に心から感謝したいと思います。3月11日の大震災の悲しいニュースにもめげずに、東海道ネットワーク宿場ラリーの幟の他に「がんばろう日本」の幟も作り、沿道の人々に呼びかけました。
 昨年は一年多難な年でありましたが今年はよい年になりますようお祈りします。




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