『歴史探訪』(74)
江戸川木材工業株式会社
常務取締役 清水 太郎
去る2月6日、新木場に拠点を持つ、某スーパーゼネコンの御厚志により、東京湾土木施設見学会が実施され、専用船に乗って時代の最先端を行く工事現場と、完成したばかりの東京ゲートブリッジ、東京国際空港D滑走路を案内して頂きました。今回は東京湾の変遷を探訪し、合わせて未来を展望します
東京国際空港に4番目のD滑走路が完成しました。これで、国内外の旅客、貨物の輸送力は大きく飛躍、年間発着能力は30万回から40万回となります。D滑走路は環境に配慮されて造られています。全長3,100米のうち2,000米は埋め立てによって造成、1,100米は桟橋方式と云って、ステンレスによってガードされた丸柱に支えられた床版の上に舗装が施されました。多摩川は滑走路の下を潜って流れ、魚やしゃこ等の成育も妨げません。滑走路に沿って船が進むうちにも、大型機が絶え間なく飛び立って行きます。
東京ゲートブリッジは2月12日に開通します。全長1,618米ありますが、中央の高さは船舶の通行を配慮して、桁下から水面まで54.6米と、レインボーブリッジより2米多い。トラス橋梁最上部は87.8米で、これは羽田へ向う空路の下である為低く抑えられています。厳しい制限をクリアする為に考案されたトラスは技術の粋を結集した芸術作品です。今日の圧巻は、昭和の末期から企画建設され、現在も途上にある中央防波堤外側埋立工事です。総面積約600ha、容量1億2千万m3という歴史的大事業です。船が横付けされ、深層混合処理船に乗り移り、作業中の様子を見学しました。CDM工法(Cement Deep Mixing method)と称し、4本の大きなドリルが海中深く回転しながら掘り進み、軟弱な泥土を取り除き、セメントを注入し、地盤改良工事が進行しています。近くに見えるもう一艘の船は汚濁防止枠付土砂送泥船と云って、船で運ばれた土砂を受入れ、海底に落し、海を汚さずに海水と一緒に吸い上げて埋め立てを進めます。完成した処理場には植林され、大きな人工林となって、ヒートアイランド現象防止の為、陸に爽やかな風を送ります。このように東京湾の施設は今後の我々の生活や産業に大きな役割を担って行くことでしょう。東京湾は埋め立てと共に変遷を重ねて来たことでしょうが、事始めは、徳川家康が大閣秀吉の命令によって移封された時期まで遡ります。それまでの江戸は百戸にも満たない小さな漁村でありました。漁民は浅瀬に竹を突き立てて海苔を採取していましたが、その竹を?(ひび)と云い、埋め立てた土地を日比谷と名付けました。ビックカメラのある有楽町は、信長の弟織田有楽斎という大名が屋敷を構えていたことから町名となりました。有楽斎は茶人でもあり、数寄屋造りの茶室を建て、後に数寄屋橋という町名も生まれました。
関ヶ原の戦いで勝利を得た家康は、幕府を開き、江戸は参勤交代によって大名屋敷が建てられ、全国から江戸詰めの侍、職人、出入りの商人が集まり、後に人口百万を越える大都市に発展します。家康は関八州を水路で繋ぐ大工事を実施し、舟運によって物流が起ります。舟運が自動車、鉄道にとって代った現在も東京港は陸の交通によって後背地と結ばれています。
江戸時代は、江東区清澄、白河、扇橋が埋め立てられ、その後中央区日本橋、八丁堀、新富町、築地一帯、新川辺りを埋めて霊岸島が造成されました。1624年、徳川幕府は摂津国佃島の漁民を呼び埋め立てた島を佃島と名付け、東京湾で漁をする権利を与えました。1658年、深川八郎右衛門が埋め立て事業を行い、造成地を深川と名付けました。
明治以降、昭和35年頃までに、江東、中央、港、品川、大田の5区で合計1,878haの埋め立てが実施され、下水処理場、羽田空港、造船場、埠頭、倉庫、火力発電所等が建設されました。昭和36年以降は高度成長期で合計3,829haが埋め立てられ、流通業務団地、木材団地、公園、住宅等が建てられました。現在は少子高齢化、デフレ経済、環境問題等により開発は見直され、輸入原木の減少による貯木場の廃止、再開発の時期に来ております。私が江東区で就業して45年が経ちましたが、以来地下鉄東西線、JR京葉線、有楽町線、大江戸線、りんかい線、ゆりかもめが開通、高速湾岸線が出来、木場から新木場への集団移転、レインボーブリッジも開通する等大変な様変りでありました。2070年には日本の人口は8,700万人に減少、地球全体では百億人になると云われております。百年後の東京湾はどんな姿になっているのでしょうか。 |